保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

立憲主義は取り戻さなくて良い~「こんな人たちの独裁」を拒否せよ~

 現在「立憲主義を取り戻す」がリベラル派界隈では最大の政治スローガンになっている。野党第一党たる立憲民主党もこれを意識してか「立憲主義を回復させます」を最大の公約にしている。

 この「立憲主義を取り戻す」をスローガンにリベラル派は結束し安倍政権を批判している。

 2010年代に入りこの「立憲主義」という言葉は政治を動かしている。 

 ではリベラル派が目標とする「立憲主義を取り戻す」が実現した場合、日本社会はどうなるのだろうか。リベラル派の「立憲主義」に関する各種発言を見てそれは大体見えてきた。

 

sasa456.hatenablog.com

 

 既に触れたようにSEALDsの後継団体たる「ReDEMOS」は日本国憲法を超越した「憲法適合性審査委員会の設置」を主張した。

 また政治の世界では立憲民主党の枝野代表は「立法権内閣総理大臣の権力は何によって与えられるか。選挙と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかない。」とか「立憲主義とセットになって初めて民主主義は正当化されます」と主張している。

 枝野氏の理解では「立憲主義」と「民主主義」は車の両輪の関係にあり、たとえ選挙で多数派を形成したとして「立憲主義」を満たさなければその多数派は民主的正統性を確保できない。

「民意」を反映させる国政選挙の結果、国会で議席数を過半数確保しようが、3分の2確保しようが「立憲主義」を満たさなければ民主的正統性が確保できないのである。

 これではいかなる政党も多数派を獲得しようとしないだろう。「多数派の獲得を目指す」というのは裏返して言えば魅力的な政策を練り、他人を説得する行為でもある。

 要するに枝野流の「立憲主義」では政党は政策を考えず他人を説得しなくなるのである。とても「立憲主義」が民主主義に貢献しているとは思えない。

 この「立憲主義」に関するリベラル派の各種発言を踏まえて「立憲主義を取り戻す」が実現した社会とは何かと結論づけるならば、それは日本国憲法に規定された国家権力を超越した権力が支配する社会である。そしてその権力は民主的基盤を持たない。

 リベラル派は「憲法とは国家権力を制限するものだ」とし、それこそが「立憲主義」と述べる。 注目点は「国家権力を制限する」という部分である。

  リベラル派にとって国家権力は制限する対象に過ぎないが問題はこの国家権力を誰がどのように制限するかである。日本国憲法に規定された国家権力とは行政・立法・司法の三つであり、近代憲法の成立過程を考えれば最大の制限対象は行政であることは間違いない。

 そして行政活動を制限したいならば政権与党を掣肘すべく国会で多数派の形成を目指すとか国会審議を活発化させるとかあくまで国会での活動が主なる。

 ところが日本のリベラル派は「政権与党」という「責任ある立場」を獲得する選択を自主放棄しているから野党的立場から、もっと言えば外野席から「立憲主義」なる言葉を殊更強調し「国家権力を制限する」を行うのである。

 要するにリベラル派は国家権力の圏外に立ちその制限を目指すのである。

 リベラル派の立ち位置はあくまで国家権力の圏外にあり、彼らの意識の中では国家権力より上位にあると言っても良いだろう。

 そしてリベラル派が自らを国家権力より上位にあることを正当化する言葉として「立憲主義」がある。

 「立憲主義」は国家権力より上位にあり、言い換えれば日本国憲法より上位にある、もっと言えば日本国憲法を超越している。

 この思考の具現化が「ReDEMOS」が提案した「憲法適合性審査委員会」である。

 別に新組織を設立しなくてもリベラル派は「立憲主義」の名の下、日本国憲法に規定された国家権力を操作することができる。それは新聞、テレビから成る既存マスコミを利用することである。

 既存マスコミは国家権力の中枢に居る政治家、官僚の個人情報の収集を通じて両者を攻撃し彼らを操作しようとする。現在、既存マスコミは森友・加計学園問題関係で安倍首相夫妻への個人攻撃を強めているが、それはこの文脈にある。

 相手方の中枢を攻撃することを通じて、その相手方を支配下に置くことは既存マスコミがもっとも得意とする手法である。「中枢を攻撃する」という意味では職業的活動家から成る国会前デモも極めて有効である。

 要するにリベラル派は既存マスコミと集団圧力を通じて日本国憲法を超えようとしている。そしてそれを正当化する言葉が「立憲主義」なのだ。

 だから「立憲主義を取り戻す」が実現した社会とは「リベラル派の独裁」が成立した社会であり、その社会で頂点に立つのは「立憲主義」の最高かつ最終の解釈者たる憲法学者である。当然、憲法学者は民意を反映した存在ではない。

 そしてこの社会では既存マスコミの構成員たる新聞記者や職業的活動家がやりたい放題できる社会でもある。「保守」の人間など「立憲主義に反する」の名の下、両者から攻撃されるだけだろう。新聞記者が「取材」と称して「保守」の人間の個人情報を盗みだしそれを職業的活動家に流す。当たり前だが職業的活動家は何をするかわからない存在である。

 日本のリベラルの実情を考えれば「こんな人たちの独裁」という表現がもっとも正確である。

 以上のことを踏まえて言えることは立憲主義は取り戻さなくて良い」ということだ。この言葉は政治利用された本来の意味を失った。そして本来の意味を失わせたのは「こんな人たち」に他ならない。