保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

立憲主義とファシズム

 臨時国会が始まり、改憲論議が活発になることは確実視されている。そして立憲民主党を始めとした野党各党が改憲論に反対するため「立憲主義」が殊更、強調されることは間違いない。「権力を縛るのが憲法である」というやつである。
 立憲民主党支持者が書いた下記の漫画では権力者の例示として「欧州型君主」が示されているが、ここがポイントである。「欧州型君主」とは要は「封建君主」である。   

 ヨーロッパの君主国はイギリスが有名であるが。第一次世界大戦まで「帝国」が複数存在し君主は結構な権力は握っていた。「立憲主義」が想定する縛るべき権力とは「封建的権力」である。

 

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 では日本の「封建君主」とはなんだろうか。天皇は「封建君主」に該当するのだろうか。もちろん否である。日本の歴史で「封建君主」とは「武士」であり、それは「徳川幕府」もって終了した。天皇は「封建時代に存在した」とは言えるが「封建君主」とは言えない。
 明治維新により「徳川幕府」は名実とともに終焉し、各大名は「華族」に転身したが政治的実権は完全に失った。日本は「憲法で縛るべき権力者」は明治維新で消滅した。
 また天皇の本質は「君主」というよりも「神官」でありローマ法王的存在である。
 確かに「王政復古の大号令」が発されたのは史実がある。しかし「維新の功労者」が「天皇親政」を目指したこともなく大日本帝国憲法により天皇は主権者とされたが、その大権の行使は憲法の条規によるものとされた。
 封建君主を想定して発展した「立憲主義」をそのまま日本史に当てはめることはあり得ない話である。

 そもそも今の権力とは国民の選挙に基づいて確立するものであり、その本質は「国民の代表者」である。民主主義の基本ともいえる「治者と被治者の同一性」は担保されている。日本国憲法前文も「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」
と明記されている。

 重要なのは言うまでもなく「国民の代表者」の部分である。安倍晋三枝野幸男志位和夫も皆「国民の代表者」である。「国民の代表者」を立憲主義の名目で「縛る」とはどういうことか。それは民意を縛ることであり国民主権の侵害である。

 そもそも「縛る」とはどういう意味か。

 

 ネットで検索してみると「縛る」とは

1.縄やひもなどを巻きつけ、一つにまとめて結ぶ。また、動きが取れないようにひもや縄などで巻きつける。結わえる。くくる。
2.自由にできないように制限する。束縛する。

 出典 小学館 デジタル大辞泉


 これを素直に読めば「縛る」とは相手の存在を認めたうえでの表現である。当たり前だが存在しない対象は「縛る」ことができない。
 立憲主義が著しく強調されたのは2014年の集団的自衛権を限定解禁する憲法解釈の変更の時からである。集団的自衛権が限定解禁された理由は国際情勢の悪化、純然たる安全保障上の要因からであり憲法9条は認める「自衛のための必要最小限度の実力」に反しない範囲内での解禁とされた。

 野党はこれを「必要最小限度の実力」=「個別的自衛権」と読み替えて違憲とし、安保法制に反対した。
 憲法解釈変更まで集団的自衛権は「保有するが行使できない」と解釈されていた。安保法制反対派は憲法集団的自衛権の行使を「縛る」ということなのだろうが、権利は行使することを前提にしているのだから「保有するが行使できない」は「縛る」のではなく「否定する」のと同じであり、その強度は「縛る」を超えている。
 「縛る」とは存在するものを「統制」することを目的に行われる動作であり、集団的自衛権の行使は「統制」できていれば問題なく、立憲主義に反しない。
 例えば集団的自衛権の行使に関して国会が全く関与できない場合は立憲主義に反しているが、安保法制では国会の事前・事後の関与は認めている。だから十分に権力を縛っており、立憲主義を満たしている。
 立憲主義論がここまで更盛した背景は戦後の左翼勢力の異常なまでの反国家主義
運動が原因である。戦後日本は日本国憲法下に移行したが統治機構大日本帝国指導層・関係者が多数「横滑り」した。

 戦争体験者が社会の主流占める中、左翼は保守政権を「大日本帝国の残滓」と見なした。戦争体験者にとって例えば「元海軍将校」の肩書を持つ国会議員は「戦争責任者」と映ったに違いない。

 そういう意味では戦後の「反国家主義」は単純な話ではないが現在の日本型リベラルには戦争体験者が少数で運動の中枢にもいない。だから彼(女)らが唱える反国家主義も驚くほど低次元である。
 筆者が繰り返し主張しているように昨今の「権力を縛る」の名目で流行している「立憲主義」回復運動の帰結は「国家を超えた権力」を生み出す危険性がある。
 旧SEALDsは内閣・国会から独立した機関による「法案の合憲性の事前審査」を提唱したし「立憲的改憲」を主張する立憲民主党所属山尾しおり氏は憲法裁判所の設置を提唱している。これらは「国家を超えた権力」の法制化に他ならない。

 この「国家を超えた権力」は民主的基盤はもちろんなく文字通り国民が統制不可能な権力である。日本は戦時体制下ですら単一の権力が誕生しなかったことを考えれば「立憲主義」回復運動は日本史上、最高の権力を誕生させるだろう。
 既視感がないだろうか。「国家を超えた権力」とは共産圏で存在した「前衛」権力(=共産党)と同じである。

 要するに立憲主義」回復運動の帰結は日本のファシズム化なのである。
 多くの人は立憲主義共産主義は全く別のもの考えるかもしれない。しかしそれは違う。この両者に共通するもの、根底するものがある。それは「進歩」である。
 この「進歩」こそが、我々「保守」が相対すべきものである。これについては別途、詳細に論じたい。