保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「こんな人たち」列伝~白井聡の場合~ その1

 日本のリベラルの特徴は「リベラルな社会」を構想することではなく「リベラルの敵」を攻撃することである。リベラルは「弱者」とか「被害者」に関心を寄せるが、これらあの人々を救済する手段は考えず、その「敵」に着目する。リベラルは「弱者の敵」「被害者の敵」裏返して言えば「強者」「加害者」を攻撃することで自己正当化を図る。

 もちろん他人を攻撃して自己正当化する者など「リベラル」でもなんでもなく安倍首相の言葉を借りれば「こんな人たち」で十分である。

 さて、今回は具体的な人物を取り上げて「こんな人たち」について論じたい。

 2013年に「いける本大賞」「石橋湛山大賞」「角川財団学芸賞」の3つ受賞した「永続敗戦論」という本がある。著者は白井聡京都精華大学専任講師であり1977年生まれであることから受賞当時は「若手知識人」の注目株のように評価された。

 現在も戦後史、時事問題に積極的に発言しており最近では「国体論 菊と星条旗」を著しておりその活動が注目されている。

 筆者は白井氏の著作を可能な限り読んでいるが彼の名を上げた「永年敗戦論」を含め白井氏の思想・思考には強い疑問を持っている。

 白井が唱える「永続敗戦」の中核は「敗戦の否認」であり具体的には「敗戦の帰結として政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに穏便する」というもので、その結果として「日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない」とされる。

 白井の言う「対米従属」とはもちろん日米同盟・在日米軍の存在であり、この両者の存在を背景に日本は「国内及びアジアに対しては敗戦を否認してみせる」とする。

 白井が言うには戦後日本はアメリカを背景に中国・韓国との間に生じているいわゆる「歴史認識問題」の積極的解決を回避しているということである。

 そして日米同盟を中核とする「永続敗戦」を支えているのが「戦後保守」であり、それは白井の理解ではSF小説家畜人ヤプー」の登場人物であり「完全に家畜化された白人信仰を植えつけられた日本人は、生ける便器へと肉体改造され、白人の排泄物を嬉々として飲み込み、排泄器官を口で清めるのである」とも言う。

 白井の理解では「戦後保守」はまさに「奴隷」である。そしてこうした「戦後保守」の奴隷意識を支えているのが「日本人の欧米人に対するコンプレックス(劣等感)とアジア諸民族に対するレイシズム」とも言う

 しかし外国と軍事同盟を結ぶことがどうして「従属」になるのだろうか。確かに外国軍隊は駐留している現実は異例である。しかしそれは必要だから駐留しているのであり、それはアメリカと軍事同盟を締結しているヨーロッパ諸国、韓国も同様である。

 確かに日米同盟は締結当初は「占領の継続」という意味合いが強かった。1951年に締結された日米同盟は米軍による「内乱鎮圧条項」が規定されていたことをよく知られており、これは在日米軍による内政干渉を合法化した条項に他ならなかった。そして「占領の継続」という色彩の強かった日米同盟を「改定」したのが岸信介である。

 「戦後保守」というと通常、吉田茂池田勇人佐藤栄作と言ったいわゆる「保守本流」を指すことがほとんどであり岸信介とそれに連なる勢力は「保守傍流」と表現され基本的に「戦後保守」には含まれない。

 しかし白井の理解では「保守本流」と「保守傍流」の区別は特段なされていない。白井にとって「対米従属=日米同盟」であることから両者の区別はないのだろう。

 当たり前だが戦後日本が日米同盟を締結したのは自らの判断でありアメリカに強要されたものではない。白井は現在の沖縄の辺野古基地反対運動に関与している猿田佐世氏が提唱した「自発的対米従属」という言葉を用いて日米同盟締結の選択を卑近なもののように論じている。自ら「従属」を選択する姿勢は白井にとって「奴隷」そのものなのだろう。 

 しかし、この「自発的対米従属」という言葉も妙な言葉である。

 通常「従属」とは他人から強要されたときに使う言葉である。「自発的」に選択したことは「従属」とは言わない。

 だから「自発的対米従属」という言葉は語義矛盾である。戦後日本は自らの平和のために自発的に日米同盟を選択したのだから「対米従属」ではない。

 戦後の日米関係は「対米依存」という言葉が適当だろう。そして戦後日本が「対米依存」を選択した理由は防衛コストを低水準に抑えることができたからであり、その選択の結果として戦後の繁栄があった。

 だから「対米依存」は経済的には十分、合理的なものである。よく議論されるのは日本人の精神、意識の部分である。外国への「依存」は不健全であり積極的に肯定できるものではない。何よりも「対米依存」は永続的に保障されたものではない。

 アメリカが日米同盟を廃棄すればそれまでであり、実際に日米同盟には廃棄手続きの規定があるほどだ。戦後日本の「対米依存」はまさにアメリカの一存次第である。

 そしてこの関係を見直す手段はそれほど難しくない。「依存」とは要は本人の意識の問題だから日本人の意識次第で「対米依存」から脱却できる。

 安全保障面における「対米依存」の見直し、裏返して言えば「対米自立」とは要するに「自主防衛」の確立に他ならない。在日米軍と第7艦隊が提供している「抑止力」を日本自らが建設することである。

 具体的にはは防衛力の大幅な増加が必要であり、それは一方で社会保障費、教育費と言ったいわゆる「民生費」を抑制ないし削除させる。要するに「自主防衛」の選択は国民の生活水準が下がる可能性がある。また「自主防衛」を選択するならば安全保障論議の混乱要因である憲法9条の改正は当然だろう。「自主防衛」はまさに「言うは易く行うは難し」である。

 だから戦後日本が「対米依存」を選択し続けたのは「自主防衛」の「現実」を理解していからであり、確かにそれは褒められたものではないかもしれない。しかし「合理性」はある。

 戦後日本による合理的判断の帰結としての「日米同盟」であり、こうした判断ができる人間は「奴隷」でもなんでもない。白井の言う「白人信仰」でもなんでもない。あるいは「欧米コンプレックス」で日米同盟を締結したとでも言うのだろうか。

 安全保障政策の最大の判断基準は「生命の確保」である。依存先が「かつての敵国」であった事実は「屈折した感情」をもたらしたかもしれないが、それを許容しなければならないほどの「現実」が戦後の国際情勢であった。日米同盟を論ずる場合、重要なのはこの「現実」だろう。

 筆者は白井の日米同盟観をとても支持できない。

 しかしこうした筆者の意見に対して白井から反論が聞こえてきそうである。