保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「立憲主義」による独裁

 2010年代に入り「立憲主義」は政治を語る上でのまさに「キーワード」となり、とりわけ2015年の集団的自衛権の限定容認を法制化したいわゆる「安保法制」を巡る議論では「立憲主義を守れ」が安保法制反対派のスローガンになった。

立憲主義」は簡潔で格調高い表現からか一般市民にも浸透し、2017年の総選挙では「立憲主義を回復させます」を公約とする立憲民主党が誕生した。

立憲主義」はまさに政治を動かしている。

 一方で「立憲主義を守る」ことがどうして必要なのか。「立憲主義を守る」ことがなぜ日本の平和に貢献するのか。「立憲主義を守る」ことで集団的自衛権の限定容認を否定し日米同盟に亀裂を生じさせ日本の平和を害した場合、それは「立憲主義」が平和を害したことになるのではないかといった疑問もつきない。

立憲主義を守って平和を害する」という事態は元も子もないし、それは言い換えれば「立憲主義のために日本人は犠牲になるべきだ」という主張に他ならない。

 現在の「立憲主義」の排他的用法を見る限り「立憲主義を守る」とか「立憲主義を回復させる」といった言説は日本をあらぬ方向に導く可能性がある。

 その「あらぬ方向」の一例として次のものが挙げられる。

 ここでは2015年の安保法制の国会審議の際に「立憲主義を守る」という名目で世間から注目浴びた団体「SEALDs(シールズ)」の活動に注目したい。

 「SEALDs」の活動が実際にどの程度、政治に影響を与えのかは議論の別れるところである。

 2016年の参議院選挙ではSEALDsが支援した野党各党はとても勝利したとは言えずSEALDsがもっとも恐れていた自民党を主体とする改憲派政党が参議院ですら3分の2を確保するに至った。こうして見ると彼らの影響力は相当に過大評価されていたと思われる。しかしマスコミから高い注目を集め、まるで「若者の声」とか「若者代表」のように評価されていたのは間違いない。

 だから「立憲主義」を語るうえで、この団体についてはもう少し注目しても良いだろう。そのSEALDsは2016年8月15日に解散したが、その後継団体として「ReDEMOS(リデモス)」が設立された。「ReDEMOS」の性格は「政策シンクタンク」であり「立憲民主主義を守る」ために各種政策提言を行うことである。

 この「ReDEMOS」のメンバーが提言した政策として注目に値するものとして「憲法適合性審査委員会の設置」が挙げられる。

 ではこの「憲法適合性審査委員会」と何なのだろうか。

ReDEMOSのメンバーの説明によると次のようになる。

 

 立法も行政も、すべての国家の活動は憲法に従って行われなければならないという立憲主義をより実効的に実現させるためには、事後的に裁判手続きにおいてその法律の合憲・違憲が判断されるだけでは足りず、国会が実際の立法作業を行うに際して、その時点で違憲な法律がつくられないようにするための仕組みが必要です。

 

(中略)

 

 当該法律案が憲法に適合しているか否かを専門的知見から検討し、国会の立法行為に対して適切な助言を与えるための独立性の高い専門機関が必要となります。

(水上貴央・中野晃一・奥田愛基「ガチで立憲民主主義 壊れた日本はつくり直せる」 110頁~111頁) 

 

 そして「独立性の高い専門機関」として「憲法適合性審査委員会」の設置を提唱し、その構成員は「専門性の維持のためには、憲法学者や弁護士、裁判官等を中心に構成されるべき」(前掲同書 117頁)であり、また「政府や時の多数派が恣意的にコントロールできない形で独立中立的に法律案の憲法適合性を判断することができる体制を十分に備える仕組みが必要」(前掲同書 117頁)と述べている。

 この説明を素直に受け止めれば「ReDEMOS」が設置を提唱する「憲法適合性審査委員会」は国会に提出される法案の事前審査を行う組織である。

 現在の日本国憲法下でも違憲立法審査権最高裁判所に認められているし国会審議前に法案の合憲性を審査する組織を作ることは国会の立法権の侵害であることは明らかである。「憲法適合性審査委員会」の設置は憲法違反に他ならない。

 「委員会」という組織名称とその形態の説明として「政府や時の多数派が恣意的にコントロールできない形」が挙げられていることから「憲法適合性審査委員会」は少数の委員から成る組織だろう。

 国会よりも最高裁判所よりも先に「少数の委員」が法案の合憲性の可否を決定することは三権分立に反することである。

 もっと言えば法案を事前審査できる独立機関であることから「憲法適合性審査委員会」は三権を超越した組織とも言え、より大胆なことを言えば日本国憲法を超越した組織と言っても良いだろう。

 「権力を監督する権力」は民主主義社会では原理的に成立せず、だからこそ権力を三つに「分割」し「相互抑制」させているのである。

 護憲派の一市民団体の理解とは言え「立憲主義」は日本国憲法すら凌駕する見解が示された。実際「立憲主義を守る」という表現を多用して行けば「立憲主義」のインフレ化が進むことは当然である。「守る」という言葉は「保護する」という言葉にも置き換えることもできる。そして何かを「守る」とか「保護する」ためには「強さ」が必要である。

 護憲派にとって「立憲主義を守る」は「日本国憲法を守る」を含めた意味だから「立憲主義を守る」という表現を多用して行けば最終的には立憲主義日本国憲法より「強く」なってしまうのは当然であり、その思考を具現化したものが「憲法適合性審査委員会」と言えよう。

 言うまでもなく「憲法適合性審査委員会」を制約するものは何もないのだから独裁組織に他ならない。

 かつて共産圏では「共産主義社会の建設」という「理想」を達成するために共産党という独裁組織を肯定した。その共産党でもソ連共産党政治局は有名である。政治局は「少数の委員」から成りソ連はまさに「少数の独裁」による政治であった。

 ソ連共産党政治局は自らが頂点に立ち人為的にまるで「機械いじり」でもするかのように「共産主義社会」という「理想」を建設しようとした。

 理想の建設、達成手段の視点と立ち位置はあくまで「機械いじり」であり要するに「上から目線」「上位下達」である。だからある意味はソ連共産党政治局は「理想」より上位にいた。

 言うなればソ連共産党政治局は彼らが理想とする「共産主義社会」すらも超越した。これは「憲法適合性審査委員会」にも言えることである。同委員会にとって「立憲主義」は自らの作為によって成立するものだから彼らは「立憲主義」よりも上位の位置に居る。

  ReDEMOSの立憲主義理解に基づけば立憲主義日本国憲法よりも上位にあり、また「憲法適合性審査委員会」は「立憲主義」よりも上位にある組織であり、そしてその構成員も少人数である。

 このことから「立憲主義が回復した社会」とか「立憲主義が取り戻された社会」とは「憲法適合性審査委員会」に統治された独裁社会である。全ての政策は同委員会が決定する。

 要するに「立憲主義を守る」こととは日本が独裁国家になることである。

立憲主義」はまさにその危険性がある言葉にまでなった。

立憲主義」は政治利用されもはや本来の意味を失った。この点は戦前の「統帥権の独立」「国体」と同様である。

 ネット世界を閲覧するとReDEMOSでは「立憲民主主義監視委員会」なる組織も検討されたようでこれは「憲法適合性審査委員会」と同じものである。

 一市民団体のメンバーの使用例とは言え「立憲主義」が日本国憲法を超越してしまった用例は注目に値する。彼らが「立憲主義を回復させます」を公約にする立憲民主党に接近する可能性も否定できない。そして立憲民主党がこの種の市民団体から距離をとっている印象もない。

 そして立憲民主党が存在する限り「立憲主義」への警戒は必要である。「立憲主義」は日本国憲法すら超越する可能性を秘めているのだから日本国憲法を守るためにも「立憲主義」への警戒が必要になる。だから本来は「護憲派」こそ立憲民主党に警戒しなくてはならない。