保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「戦後レジームからの脱却」とは何か

 安倍首相はその政治活動において「戦後レジームからの脱却」を目指している。 

 安倍首相の口から「戦後レジーム」の具体的な定義・内容が述べられたことはないが「戦後レジームからの脱却」の絶対条件に日本国憲法の改正が含まれているのは間違いない。

 安倍首相の中で「戦後レジーム」と「日本国憲法」は密接に関連している。 

 筆者が安倍首相の考えを忖度して「戦後レジーム」と「日本国憲法」の関連性を指摘するならば「戦後レジーム」とは戦後、GHQが日本から奪い破壊したものを日本国憲法が制度的に固定化した体制、あるいは日本国憲法による永続的な歴史的共同体たる「日本」を否定する体制を指す。

 では日本がGHQから奪われた、あるいが日本国憲法によって現在進行形で否定されている歴史的共同体たる「日本」とは何だろうか。

 それを大胆に単純化して表現すれば「尊皇と自主防衛」の精神である。

 「尊皇」とは「皇室を敬愛する心」であり「自主防衛」とは「自分の国は自分で守る」という気概である。

 まず「尊王」について述べよう。

 世論調査をみても「象徴天皇制」を支持する国民は圧倒的であるが一方で皇室への無関心が強いこともよく指摘される。

 戦後の左翼・リベラル勢力は現在にいたるまで皇室に冷淡である。皇室の長たる天皇の存在は日本国憲法によって規定されているが憲法学者による憲法解釈では「天皇は象徴に過ぎない」と消極的解釈がなされている。

 この消極的解釈自体、天皇そのものへの警戒・否定の現れである。

 憲法学者の主流はで天皇を積極的に評価すること自体が国民主権に反する、国民主権が危うくなる、もっと言えば憲法学者を中心に左翼・リベラル勢力は天皇国民主権を矛盾・対立関係と評価している。

 そこに「尊王」は全くない。

 言うまでもなく天皇日本国憲法に規定されているから存在しているわけではなく天皇が存在しているから日本国憲法に規定されているのである。

 歴史的に見ても天皇は「摂政・関白」「征夷代将軍」の任命など日本の国制・政治制度に形式的儀礼的ではあるが一定度関与してきた。

 そうした歴史を持つ天皇がどうして国民主権に反する存在なのだろうか。

 天皇国民主権は矛盾・対立関係になく両立関係にある。この戦後特有の天皇への消極的・否定的評価こそが「戦後レジーム」の一角である。

 ではもう一角の「自主防衛」はどうか。

 国際社会において「自分の国は自分で守る」という考えは自明の理であるが、戦後日本では敗戦の反動からか意識的避けられた。

 「自主防衛」とは要は他国からの日本への侵略を排する、あるいは日本への侵略を思い留まらせるための十分な軍事力を持った軍隊を国民自らが持つことである。

 しかし戦後日本ではこれは意識的に避けられた。戦争の悲惨さを経験した人々が戦争を想起させる「軍隊」なるものを忌避するのは当然の感情だろう。

 確かに軍隊が存在しなければ戦争は起きない。もちろんそれは世界の全ての国が軍隊を放棄することが前提である。

 また「自主防衛」を確立する軍隊を持つことは人的にも予算的にも多大なコストが求められる。戦後間もない日本でこのような巨額のコストはとても調達できなかったし政治的に徴兵制のような国民に強制力を伴うような制度を導入することはとてもできなかった。

 それどころか日本国憲法9条2項の条文を素直に読めば軍隊の設置そのもの禁止しているとも解釈できる。これが安全保障論議を混乱させ、それは今に至るまで続いている。

 そして自主防衛は「多大なコスト」という現実と憲法9条2項から来る安全保障論議の混乱も相まって断念しなくてはならなかった。そして戦後日本が選択したのは日米同盟の締結である。

 しばしば戦後の日米関係はしばしば「対米従属」と評されることがあるけれど、この「従属」のほとんど全部は安全保障面での従属であり、そしてそれは日本自らが望んだものであった。

 日米同盟は決してアメリカから強要されたものではない。我々日本人の選択の結果である。このことを誤魔化してはならない。

 日本自らが望んだものだから日米同盟を論ずる場合「従属」という表現は不適切であり適切な言葉としては「依存」がふさわしく、それを踏まえて言えば戦後の日米関係は「対米依存」という表現が最も適切だろう。

 戦後日本は、この「対米依存」を通じて防衛コストを最小限に抑え経済成長、国民一般の生活水準の向上を実現した。

 戦後の「対米依存」は少なくとも経済的には多大な利益をもたらしたことから、それは合理的な戦略だったと言えよう。 

 一方でアメリカ相手に限らず一般的に「依存」は決して健全とは言えない。

 また「対米依存」が自発的なものである以上、日本だけの都合で成立するものでもない。言うまでもなくアメリカが応じなければ成立しない。

 アメリカが日本の防衛に責任を持てるのはアメリカの圧倒的な国力が大前提でありそれは永続的に保障されたものではない。

 しかし「自主防衛」はまさに「言うは易く行うは難し」であり、その実現には段階を踏む必要がある。

 順序としてはまずは安全保障面において憲法解釈の変更などを通じて日本を「普通の国」にすることである。この理解に基づき秘密保護法、安保法制が制定され、これらの施策はまさに「戦後レジームからの脱却」の第一歩と言えよう。

 そして憲法9条が日本の安全保障論議を混乱させていることは明らかであることから9条改正が「戦後レジームからの脱却」に含まれることは言うまでもない。

 このことから「戦後レジームからの脱却」とは「尊王と自主防衛」の確立であり、この2つを阻害しているのが日本国憲法である。

 天皇への消極的解釈を発生させる余地を生まないためにも憲法上における天皇の地位を変更する必要がある。天皇を「国家元首」と規定すればいかなる憲法学者も消極的解釈が示せないだろう。

 また安全保障論議を混乱させている憲法9条2項を削除すれば護憲派は解体し、より現実的な安全保障論議ができるだろう。それが「自主防衛」の確立に続くのである。

 他にも細かな部分は多々あると思われるが憲法1条と9条の改正が「戦後レジームからの脱却」の核心であることは間違いない。

 単純化して言えば天皇自衛隊日本国憲法の拘束から解放することが「戦後レジームからの脱却」と言える。