保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

民主主義を破壊する「立憲主義」

 立憲民主党の枝野代表は「立法権内閣総理大臣の権力は何によって与えられるか。選挙と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかない。」とし「立憲主義とセットになって初めて民主主義は正当化されます」と述べる。

 枝野氏の理解では立憲主義と選挙結果は同列であり車の両輪の関係にある。

 たとえ選挙で多数派を形成したとしても立憲主義が満たされていなければそれは正当化されない、しかしそんな理屈あるだろうか。

 民主主義では確かに「多数派の横暴」は回避されなくてはならないが、だからと言って多数派を形成することと同等の価値が存在することなどあり得るのだろうか。

 立憲民主党を始めとしたリベラル勢力は盛んに「立憲主義」を強調する。

 立憲主義が満たされていなければ多数派の正当性を確保できない、民主主義が正当化されないとなると当然、彼らのこだわる「立憲主義」はなんなのかと言うことになる。

 集団的自衛権を限定容認した憲法解釈の変更を理由に「立憲主義が破壊された」とリベラル勢力は言うが内閣による憲法解釈の変更は禁止されていない。

 「立憲主義」を殊更強調することは憲法学者の政治介入を招くを恐れがあり、最悪、憲法学者が選挙結果の正邪・真贋を決定することなる。「立憲主義」の強調は国民主権を形骸化させる恐れがある。

 現在の日本では「立憲主義」はもはや政治利用され本来の意味を失った単なる党派用語と化しており、この言葉を使用する勢力には注意が必要である。

 リベラルが「立憲主義」に着目する理由は彼らが選挙で多数派を形成できないことを自覚しているからであり、そしてリベラルが多数派を形成できない理由は彼らの主張が無内容だからである。

 リベラルを自称する者から「具体的なリベラルな政策」など聞くことはない。日本のリベラルは所詮、スローガンに過ぎない。

 そしてリベラルは自らの無内容性を棚に上げて「多数派」に偏見を持っている。

 当たり前だが多数派を多数派足らしめたのは支持があったからであり、政治で言えば政策が魅力的で多くの人から支持されたからである。また多くの人に支持されるよう多数派当人達が説得の努力をしたからである。

 逆に言えばリベラルは魅力的な政策を示せず、説得の努力もしなかった人々と言える。

 そんなリベラルにとって「立憲主義」の言葉さえ用いれば多数派と同等の位置に立てることは魅力的であるに違いない。

 そして特定の言葉を強調して議論の主導権が握れるならば誰も多数派を目指さなくなるだろう。魅力的な政策を示し他人を説得することより攻撃的な言葉を示し少数派を目指した方がはるかに楽である。

 立憲民主党が目指す「立憲主義が回復された社会」とは無責任で攻撃的な政治的少数派同士が罵りあう社会である。

 実際、立憲民主党が狙っている立ち位置は「少数派の覇権」である。

 責任ある立場には決してつかず政権与党たる多数派をコントロールする立ち位置である。国会では「立憲主義」を掲げ審議拒否し国会周辺は支持者のデモを通じて多数派に集団圧力を加えるのである。

 選挙で示された「民意」は「立憲主義」と「国会前デモ」によって封じ込まれる。

 言うなれば「民意」は常に頸動脈を押さえつけられた状態に置かれる。

 これが立憲民主党が言うところの「立憲主義が回復された社会」である。

 国民主権が形骸化した社会と言い換えても良いだろう。

 そして立憲民主党国民主権が形骸化した「立憲主義が回復された社会」を目指すべく4月14日(金)に大規模な国会前デモを企画している。

 主催者に立憲民主党の名前はないがそれはあくまで表向きの話で同党の政治家は間違いなくデモに参加するだろう。

 筆者は立憲民主党を始めとしたリベラル勢力を批判することに人後に落ちないと自覚しているがリベラル勢力との正面衝突は徹底的に避けたいとも考える。

 左右問わず政治運動に参加する者は「小さな衝突は大きな衝突を招く」という意識を持たなくてはならない。政治運動では「一滴の血」はともすれば計り知れない犠牲者を生む。政治運動には何よりも自制心が求められる。

 そしてこの観点からでも少なくとも国会周辺の警備人員の増員は正当化できよう。

 機動隊はまさに自制心の塊のような人間で構成されている。

 警視庁機動隊の定数は諸説あるが昭和期は概ね6,000人だったものが現在では3,000~3,500人程度まで減員されていると聞く。

 現在の不穏な政治情勢を考慮すれば警視庁機動隊の定数は昭和期の水準に戻すべきだろう。

 「立憲主義」を掲げ「少数派の覇権」を目指すリベラル勢力から日本の民主主義を守るべく今ほど「政治暴力」への議論を深めることが求められているときはない。