保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

過激分子の思考を考える。

 休日に街を散策していると時折、街宣車に乗った右翼団体が駅前で演説しているのに出くわす。内容は「北方領土を返還しろ」とか「日教組解体」とかである。毎回毎回、同じ主張を繰り返しているがこれらの主張は実現していない。それは日本政府の責任でもあるが、街宣右翼が自らの主張を実現するために、例えば政治家に働きかけるとか具体的なことをやっているのか疑問である。もしかしたらやっているのかもしれないが成功という結果は出ていない。
 街宣右翼は筆者も含めてほとんどの人が「迷惑集団」としか認識していないだろう。
 翻して日本型リベラルの街頭行動だが、具体的にはデモ・署名活動である。筆者の独断と偏見で言えばやはり高齢者が目立つ。そしてこれらの行動も成功しているとは思えない。2015年に集団的自衛権の限定解禁を容認した安保法制を巡り国会を大規模デモが取り囲んだが、その安保法制は可決した。
 そもそも日本は憲法前文で議会制民主主義の採用を宣言しておりデモや署名などの触接民主主義はその「補完」に過ぎない。
 街宣右翼のような極右そして日本型リベラル全般に言えることは、彼(女)らは「手続き」という発想が驚くほど乏しいのである。もともと抽象的表現を好んで使う傾向があり、もちろん抽象表現自体に問題はないが、それを具体化するという発想は乏しく、論者によっては全くない。彼(女)らは自分の主張した抽象的表現がすぐさま実現するかのような言い回しをする。しかし実際、物事は抽象を具体化する作業が必要であり、要するに、それは他人を説得することである。
 しかし過激分子は多数派形成が不得意であり、だからこそ少数派であるし少数で社会を変革したいならば結局、多数派を攻撃するしかない。攻撃を通じて「多数派に変革を強いる」のである。
 政治家と言っても肉体的には当然、我々と変わらないし守るべき家族もいる。過激分子の標的となり攻撃されたらたまらないだろう。
 極右は愛国心に基づき外国を攻撃する。要するに「日本を守る」という意識で行動している。また日本型リベラルは「憲法を守る」とか「民主主義を守る」という意識で行動しているのは間違いない。何かを「守る」という意識は被害者意識を持てるため自己正当化しやすい理屈である。彼(女)らが「守る」と考えるものは「日本」「憲法」「民主主義」といったスケールの大きいものばかりである。

 そしてこれら巨大なものを変革したいと思うならば責任ある立場、具体的に言えば政治家を目指すのが普通だと思うが、彼(女)らにその発想が乏しいのである。巨大な組織・システムは責任にある者によって運営されている。政府も私企業も無責任な者には運営できない。だから「日本」「憲法」「民主主義」を「守る」と思うなら政治家を目指すのが筋である。
 多数派形成能力のなく他者攻撃に熱心な過激分子にとってこの種の言葉はスローガンに留まることが多い。もっともスローガンで留まるなら良い方で他者攻撃を正当化する根拠になっている。

 過激分子にとって「日本」「憲法」「民主主義」は守られるべき存在であった。言い換えれば「弱者」である。この「弱者」という表現が肝である。「弱者」を守るためには自らは「強者」にならなくてはならない。「強者」は「弱者」を超える存在でなければ成立しない。だから過激分子たる極右・日本型リベラルは「守る」べき主体である「日本」「日本国憲法」「民主主義」を意識の面では超越している。

 もっと言えば過激分子は意識の面では法を超越していると言っても過言ではない。
過激分子はどうも「法を超えた正義」みたいなものを認めており、その「正義」は彼(女)らが守ろうとしているものである。「日本」「憲法」「民主主義」も「法を超えた正義」の扱いである。

 これらは法理論とは別の次元で論じられるべきものだが法を超えたものではない。この中でとりわけ議論を呼びそうなのは「民主主義」だが、筆者は「民主主義とは何か」と問われれば「手続き」と答える。確かに日本の政治は手続きに非常な手間がかかるものである。日本で「何かを変革する」「何かを実現する」には相当な時間と労力が必要とされる。分野によっては一生涯をかけなくてはならない。
 日本はディベート文化がなく公の場で議論される前に「打ち合わせ」と称して議論のシナリオが作成され、公の場はそれを読み上げる作業で終わる。「打ち合わせ」中のやりとりも議論ではなく「駆け引き」である。だから共通理解が形成されない。
 また日本は全会一致を尊ぶ社会であり、そのため少数派が大きな影響力を持つ。「全会一致」は議題を理解していない議論参加者にも意思決定権を与えるものだから「無責任な拒否権」を発生させる。「そんなの聞いていない」という次元の意見すら尊重される。
 そして「無責任な拒否権」は「腐敗した拒否権」へ一瀉千里である。拒否権行使を目的化した議論参加者を誕生させる。
 日本社会では意思決定の手続きに膨大な負担がかかるから多数派形成を諦める勢力も出てくると言えるし、逆に全会一致により少数派の意見が過剰に尊重されるから、それを期待して多数派形成を怠る勢力が出てくるとも言える。
 過激分子が跋扈しないようにするためには日本の議論文化・意思決定システムを抜本的に見直す必要があるが、さすがにこれはスケールが大き過ぎる話である。ただ「議論がまとならないのが日本文化」ぐらいの意識は持てるだろう。
 過激分子は多数派を形成しないが多数派を扇動することには長けている。これは極右よりも日本型リベラルが得意とする。前にも触れたが日本型リベラルは「弱者」「被害者」に寄生してその決起を促す。「あなた方は社会から虐げられていますよ」といった具合だ。
 自民党所属衆議院議員杉田水脈氏のLGBT論文の文言を巡り例のごとく日本型リベラルは集団威圧を伴う批判を行ったが、それに対して「対決より解決」という意見が出た。日本型リベラル批判として実に良い表現である。
 過激分子は意識面では法を超越し情緒的表現を駆使し世論の分断を図る。特に重要なのは法を超越した意識を持っていることであり、要は治安問題である。
 彼(女)らと直接対決は危険だし、説得も困難である。我々「保守」は過激分子の動向を適宜、確認しつつ自らの理論を発展させつつ無党派層から支持を得る方策を進めて行くのが良いだろう。

 無党派層からの支持を得るには同層が持つ「保守への不安」に対し真摯に回答する必要がある。その第一弾として極右分子との接触拒否、具体的な団体名を挙げれば在特会日本第一党とその系列団体との接触を一切拒否することだろう。極右は保守にあらずだし保守の足を引っ張り「保守への不安」を醸成する存在であることを忘れてはならない。