保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

進歩主義と「敵」~リベラルの源流を探る~

 リベラルは昨今の北朝鮮情勢を鑑み「安倍政権は外敵の脅威を強調し支持を集めている」と批判する。

 北朝鮮の脅威は現実に存在するものであり安倍首相がこれを殊更強調しているという印象はない。むしろ抑制的に対応していると言えよう。

 もっとも政治ではときおり自己正当化の手段として「敵」を設定、攻撃することが行われる。今の日本でこれを積極的に行っているのは他ならぬリベラルである。

 日本のリベラルの特徴は「リベラルな社会」を建設することではなく他人からリベラルと評価されたいだけである。

 安倍政権を「敵」と解釈し容赦なく攻撃する。「敵」は否定の対象であり拝聴に値しない。その文脈でリベラルの攻撃は安倍首相、昭恵夫人への個人攻撃までに発展している。

 政治における「敵」について政治学カール・シュミットは友と敵の区別が政治の本質と評したことはよく知られる。

 カール・シュミットナチス・ドイツ政権下でヒトラーの個人独裁を肯定する理論を提供した人物である。

 政治学者ならば政治における「敵」の存在の危険性について触れるべきだがカール・シュミットはむしろその存在を肯定した。カール・シュミットはまさに「劇薬」である。

 そして常識的に考えれば「寛容」や「多様性」を重んじるはずのリベラルは本来、「敵」の攻撃に執着しない。もっと言えば「敵」の存在を否定する姿勢こそリベラルの本来あるべき姿である。

 だから日本のリベラルは「リベラル」の仮面を被る「こんな人たち」と言ってしまえばそれまでだが、彼らを突き動かしているものはなんだろうか。

 それは「正義」「大義」の類である。

 世界史を雑駁に顧みて宗教戦争国民国家の戦争(第一次世界大戦)、イデオロギー戦争(第二次世界大戦)などを観ても「正義と正義」「大義大義」の衝突、要するに「聖戦」はまさに血で血を洗う闘いであり相手を殲滅するまで徹底して行われる。

 だから「聖戦」を避けることが政治にもっとも求められることである。

 もっとも多くの人は冷戦が終わり、もはや強力な「正義」「大義」は存在しないと思うかもしれない。果たしてそうだろうか。

 前記した「聖戦」の歴史をよく見てみると「聖戦」はキリスト教圏で起きていることがわかる。もちろん、宗教戦争は別として新約聖書を読めば「聖戦」を肯定してしまうというわけではない。要するにキリスト教の歴史的役割をどう評価するという点である。

 ヨーロッパではキリスト教から解放されることが「近代化」と評価されている。

 「啓蒙思想」はもちろん「フランス革命」もまた政治における教会の位置づけが極めて重視された。

 宗教からの解放こそが「近代化」という評価は依然として強い。

 そしてキリスト教から解放された、より正確に言えば教会が政治勢力として完全に微弱となった19世紀、ヨーロッパはまさに世界を制覇した。

 19世紀以降、世界を制覇した「ヨーロッパ帝国主義」はキリスト教から解放されたヨーロッパ諸国の一つの到達点と言えよう。

 そしてここで対比したいのはキリスト教が政治・社会の全てを支配していた「ヨーロッパ中世」である。

 「暗黒の中世」という言葉はもはや「死語」であり「ヨーロッパ中世」が長く存在した最大の理由はヨーロッパの中世人がそれに満足していたからである。 

 そこに特段の不合理はないが、そうだとしてやはり外国人の筆者から見ても「ヨーロッパ中世」は前史たるローマ帝国史と比較しても力強さに欠ける印象がある。

 ヨーロッパでは「中世」という停滞した時代を克服した、言い換えれば「歴史が進歩した」結果、ヨーロッパは劇的に発展したという歴史認識は根強いと思われる。

 要するに何が言いたいのかというと欧米には「進歩主義」というものがあり、これこそがリベラルの源流である。

 「進歩」に反するものは「現状維持」であり、ここに「進歩主義」の「正義」「大義」が生まれる。

 「進歩主義」に反する「現状維持」は「遅れ」「歪み」に過ぎず否定の対象である。    

 もっと言えば「現状維持」は「敵」である。過去に世界を席巻した共産主義社会主義もまた「進歩主義」の一つである。

 「進歩主義」の理解では「現状維持」を「敵」と認識、否定し「進歩主義」を徹底した社会こそ「正しい社会」というものである。

 また「進歩主義」は「敵」の存在を容認している。だから「進歩主義」は攻撃性、排他性を含意している。

 日本のリベラルもまた「進歩主義」の攻撃性、排他性を発揮している。そして日本のリベラルの「進歩主義」には間違いなく「護憲」が含まれている。

 「護憲」を徹底すること、憲法9条を護持することが日本のリベラルにとって「進歩主義」が徹底された「正しい社会」なのである。

 筆者は必ずしも「進歩主義」を否定するものではないが、その攻撃性、排他性には不満を持つものである。とりわけ安全保障分野でのリベラルが主張する「進歩主義(=護憲)」は極めて危険なものと考える。

 そして「進歩主義」の攻撃性、排他性を中和するのが「保守」の役割と考える。