保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「こんな人たち」と「みっともない憲法」~安倍首相の慧眼~

 日本のリベラルの特徴は「敵」を設定、攻撃し自己正当化を図るだけであり、

通常、このような勢力は「リベラル」とは評価しない。

 リベラルが驚くほど攻撃的な理由は下記のとおりである。

 

(イ) 進歩主義

(ロ) 責任ある立場からの積極的回避

(ハ) 公開討論が過小評価される日本の議論文化

 

sasa456.hatenablog.com

   (イ)については既に述べた。

 「進歩主義」の立場にあるリベラルから見れば「現状維持」は「遅れ」「歪み」であり否定、攻撃の対象に過ぎない。むしろ攻撃することが相手のためであると思っている節すらある。

 次に(ロ)についてだが日本のリベラルは責任ある立場に就くことを積極的に回避する。戦後日本には冷戦まで現在のリベラルの「前段階」とも呼べる「左翼」が存在した。

 「左翼」の代表格である日本社会党は国政選挙において立候補者数を限定し国会で過半数を獲得することを自ら拒否した。日本社会党は「万年野党」を自主選択したのである。「万年野党」とは要するに対案を示さない「反対のための反対」「批判のための批判」である。もちろん攻撃的である。

 「進歩主義」は元来、攻撃性を含意するが「万年野党」の自主選択がそれを加速させた。

 最後に(ハ)であるが、日本では公開討論の習慣がなく仲間内での議論が優先、深められることが多い。仲間内での議論が深化することで議論が「純化」し最悪「カルト化」してしまうことすらある。

 日本の議論文化では「異論」は拝聴するものではなく否定の対象である。公開討論を通じて相手の主張との共通点を探り距離を縮めるのではなく相違点を見つけ、そこを攻撃する傾向があるのが日本の議論文化である。

 この日本の議論文化の悪影響は左右問わず及んでいる。

リベラルは自らを進んだ立場にあると考え、だからと言ってそれを実現するために責任ある立場には就かず外野から非難し仲間内でそれを共有し攻撃を加速させていくのである。

 繰り返しになるが日本の「リベラル」はとても「リベラル」とは呼べず安倍首相の言葉を借りれば「こんな人たち」で十分である。

 「敵」を攻撃することで自己正当化を図る「こんな人たち」だが、彼らの頭の中には彼らが意識する「敵」と対称となるものが存在する。それは「護憲」である。

 「こんな人たち」は日本国憲法聖典化し外野席からその履行を政府に迫る。

 しかし憲法はあくまで「国民の利益」の増進を達成するため手段であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 リベラルは「憲法に規定された平和主義は人類の理想で最先端で素晴らしいものだから改憲してはならない」と言うが平和主義は憲法に規定されたから素晴らしいのではなく素晴らしいから憲法に規定されたものに過ぎない。

 日本国憲法に規定された条文が平和主義を達成するとは限らない。既存の条文で平和主義が達成できないのならば改正すれば良いだけである。

 現在の憲法9条改正論議もこの域の議論に過ぎない。

 しかし「こんな人たち」のように憲法聖典化してしまうと憲法は国民から遊離してしまう。憲法聖典化はその解釈者たる憲法学者の影響力を絶大なものにし国民主権を形骸化してしまう。

 憲法聖典化は憲法学者を「神」にしてしまう。だから聖典化した憲法はもはや憲法ではない。憲法学者の支配の根拠に成り下がるだけである。

 他人を攻撃することでしか自己正当化できない「こんな人たち」の活動の根拠になり国民主権を形骸化してしまう危険性すら孕んだ日本国憲法は安倍首相の言葉を借りれば「みっともない憲法」と呼ばざるを得ない。

 そして「こんな人たち」と「みっともない憲法」という言葉を発明した安倍首相は慧眼の持ち主である。

 論を戻そう。

 この「みっともない憲法」を聖典化する「こんな人たち」は民意を反映した多数派の中枢を攻撃することで多数派をコントロール下に置き「護憲」を履行させる。

 現在の首相夫妻への魔女狩り的な個人攻撃や国会前デモはその例である。

 人間で例えれば頸動脈を押さえられている状態であり多数派の意思を封殺する。

 要するに「こんな人たち」は民意を封殺する民主主義の破壊者なのだ。

 現在の日本は「こんな人たち」と「みっともない憲法」が両者一体となって日本の平和と民主主義の障害になっている。最近では「こんな人たち」は量的不足を補うためか外国人活動家を来日させている。「国連特別報告者」はこの一例である。

 「こんな人たち」はまさに外国の脅威を日本に招いている。

 日本の平和と民主主義を守るためにも「こんな人たち」と「みっともない憲法」をまとめて退場させるしかない。

 もちろんその手法は平和的でなくてならない。その具体的な手法は改憲であり憲法9条2項を削除である。憲法9条2項を削除すれば「こんな人たち」は活動の根拠を失う。

 もちろん憲法9条改正に進みだせば「こんな人たち」は多数派中枢への攻撃を加速させるに違いない。だから「多数派の所在地」である国会、首相官邸の安全と平穏は絶対に確保しなくてはならない。

 両施設を守るためにも最低でも警察官の増員は必要である。また世論が許すならば両施設への接近を制限する権限を現場警察官に付与することも検討されよう。相手を傷つけない防御をいくら強化しても問題はない。むしろ「こんな人たち」が攻撃を断念する水準まで防御力を高めるべきである。

 ここでは改憲実現のための「こんな人たち」対策の一例として警察官の増員と施設への接近制限を挙げたが、これらは対処療法に過ぎず根本療法とは言えない。

 改憲の基本は改憲論議を盛り上げ改憲支持の世論を増やして行くことである。

 防御力を高め不当な干渉を排しつつも世論への訴求を通じて味方を増やして行く。

 このように衝突を避け、誰も傷つけずに目的(改憲)を達成する姿勢、思考を忘れてはならない。 

 

 「こんな人たち」と「みっともない憲法」は確実性を持って日本社会から退場させるのである。