保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

自民党改憲草案は全体主義?~「進歩」が独裁を生む~

 人類史上、最も人権を蹂躙した体制は全体主義(=ファシズム)体制である。戦後日本でも大日本帝国全体主義に関心が持たれ研究が進められた。

 全体主義は「右翼全体主義ファシズム」「左翼全体主義コミュニズム」に分けられ、日本では「右翼全体主義ファシズム」が圧倒的に知られている。

 戦後日本の歴史学界では「ドイツ・ファシズム」「イタリア・ファシズム」「日本(=天皇制)ファシズム」の共通性が論じられ。とりわけ日本では左翼からは「ファシズムの淵源」と認識された天皇が戦後も存続していたからファシズム研究は政治的要素もあった。「天皇制は論理必然的にファシズムを招来する」ことを証明できれば、それは最高の天皇批判になる。

 しかし「日本(=天皇制)ファシズム論」は1976年に当時、東京大学教授(新しい歴史教科書をつくる会元理事)の伊藤隆氏が「ファシズム」の無内容性を指摘して以降、歴史学界は百家争鳴状態になり、最終的には伊藤氏の指摘が認められ(有効な反論がなかった)沈静化した。 

 伊藤氏の理解で言えば大日本帝国下で個人を抑圧した体制は「ファシズム」ではなく「戦時体制」である。そう言う意味では大日本帝国は「ファシズム」体制ではなかったし、また「戦時体制」は連合国も採用されていた体制であるから特段、異常ではない。

 更に言えば現在の日本国憲法体制下でも対外戦争の可能性は否定できず「戦時体制」が復活することもあり得るのだから「大日本帝国ファシズムだった」といった言説は日本の防衛論議に混乱を招き有害とも言える。

 一次史料の発掘も進み「全体主義」「ファシズム」といった「大理論」を当て込む研究手法が忌避され、日本史の学術書から「全体主義」「ファシズム」の用語は事実上、消滅した。一次史料が歴史研究の基礎なのだから「大理論」はもう研究の主流にならないだろう。

 しかし「全体主義」「ファシズム」は政治の世界では案外、「市民権」を得ている。  

 それは真摯な批判というよりも政敵への「レッテル貼り」「罵倒語」としてである。

 こうした現実がある以上、筆者は「全体主義」について整理する必要があると考える。

 最も著名な「全体主義」はナチス・ドイツであり、ナチスユダヤ人を始めとした特定民族の抹殺を推進したことが知られている。ユダヤ人を「劣等人種」と認定し収容所に入れた。そしてナチスユダヤ人を「劣等人種」と判断した根拠は「優生学」という学問だった。ここで重要なのは「優生学」は当時最先端の学問と認識されていたことである。つまり「人種隔離・抹殺」政策は科学的・医学的根拠がある合理的なものと理解されていたのである。そしてこの優生学は当時は明らかに進歩的思想の扱いだった。

 またナチス社会主義政策を採用したことも知られている。ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」であり、ナチス当人達が「社会主義」を真剣に考えていたとは思われないが、間違いなく社会主義政党である。

 ナチス政権の「成功」と評価される(最近では否定的評価も増えている)経済政策もナチスは党外の人材(ヒャルマル・シャハト)を登用し社会主義政策を実施したものである。

 そして言うまでもなく社会主義も1930年代はもちろん1960年代までは進歩的思想だったのである。論者によってはソ連崩壊まで社会主義は進歩的思想だったかもしれない。

 全体主義を論ずるにあたって重要なのはこの「進歩」である。優生学社会主義も「進歩」であった。進歩は「正義」に置き換えられやすい。ただし「進歩=正義」ではない。「正義」は「保守」や「復古」でも成立する。

 全体主義国家では独裁も正当化された。共産党の「前衛主義」はよく知られているし、ナチスも「指導者原理」を導入し独裁を肯定した。

 進歩的思想は文字通り「進んだ思想」であり、それ以外は「遅れ」とか「歪み」とみなし否定する。だから進歩主義者が自分を一段高見において社会を改革しようとするのはある意味当然である。またこのことから「進歩」は排他性を含んでいると言える。

 問題は進歩主義者は「他人を説得する」という手続きを疎かにしがちであり、むしろ彼(女)らは自分達の「進んだ思想」を実現するために強硬措置すら肯定する。

 進歩主義者からすれば「遅れ」「歪み」を持つものは対等な存在ではない。現在でも「保護」の名目で他人の権利行使を制限すること、例えば「バターナリズム」の思想はよく知られている。「バターなリズム」ももちろん「進歩」に基づくものである。

 だから進歩主義者は意識面では社会を超越している。超越しているからこそ他者攻撃・支配、最悪、存在否定すらも正当化するのである。見方によっては他者攻撃したいだけの人間が「進歩的思想」を支持しているようにも見える。

 冷戦が終結したからと「進歩」は消滅しない。そもそも社会の活力は「進歩」があってこそである。進歩的思想は否定すべきではない、ただし「進歩的態度」は不要である。

「自分の考えは進んでいて正しい」という態度は「対話」を成立させない。また社会改革を望むなら「責任ある立場」を目指すべきである。「責任ある立場」とは与党であり野党ではない。「確かな野党」など単なる議事妨害の存在に過ぎない。

 今の日本で「進歩」にあたるものは「立憲主義」である。日本型リベラルは「立憲主義を取り戻す」とか「立憲主義を守る」をスローガンに「国家を超越した権力」を握ろうとしている。

 立憲民主党所属衆議院議員の山尾しおり氏は「立憲的改憲」に基づき「憲法裁判所の設置」を主張している。彼女は安倍政権下で内閣法制局長官の人事が官邸主導で行われたことを「不文律を侵した」といって強く非難している。

 山尾氏の意識は「政治家」ではなく「法律家」であり、仮に彼女の主張に基づき憲法裁判所が設置された場合、外部から同裁判所を統制することは全くできないだろう。

 何も「立憲的改憲」といった大胆な制度改正をしなくても「多数派の中枢を攻撃する」ことを通じて日本の進歩主義者(=日本型リベラル)は完全ではなにしろ「国家を超越した権力」を握ることも可能である。例えば国会前デモ、政党本部前デモ、メディアスクラムなどといった手法で政治家個人を威圧し屈服させることも可能である。

 要するに進歩的思想の排他性が露出したものが「全体主義」である。

 今後、日本で全体主義体制が採用されるとしたら「人権擁護」が主たる理論となっているだろう。最近では韓国の徴用工(実際は募集労働者)判決を巡って「日韓基本条約軍事独裁政権下で締結されたものだから無効だ」という意見も出てきた。もはや人権は国際法を超越しつつある。

 未来の全体主義社会とは「人権擁護」を目的とした民主的統制が及ばない機関が君臨する社会である。個人の権利の行使もその機関に忖度しなければならない社会であり、もちろんそこに「自由」はない。

 思えば共産主義も「平等社会」を実現するための思想だった。しかし、実際は「共産党幹部」という「富の分配者」が君臨する超格差社会を誕生させただけだった。

 「進歩」は「自由」を支配する危険性を秘めている。

 さて、最後に全体主義を論ずるにあたって触れておきたいのが2012年に自民党が示した改憲草案についてである。日本型リベラル界隈ではこの改憲草案をもって「自民党ファシズム政党だ」とか「日本が全体主義国家になる」と批判している。

 確かに2012年の自民改憲草案は復古的表現も多く、どこまで本気で考えて作成したのかわからない。野党時代の案だから常識的に考えれば支持者向けだろう。

 ただ同改憲草案で示した「国防軍の設置」「緊急事態条項の導入」も国家の存在意義(レゾンデートル)たる国民保護機能を満たすものであるし前文で歴史・伝統に触れることも「立憲主義に反しない」範囲なら問題はない。外国の憲法自民党改憲草案よりもはるかに歴史・伝統について記載している。

 自民党改憲草案は「復古」的であるとは批判できるかもしれないが「全体主義」とは批判できない。

 ここまで読んだ方なら理解できるだろうが全体主義はあくまで「進歩」の奇形的発展の結果である。「復古」によって誕生するわけではない。全体主義は進歩の先にあるが復古の後にはない

 そしていま、日本で「全体主義」に最も近い勢力は「国防軍の設置」を目指す自民党ではなく「立憲主義を取り戻す」をスローガンにする立憲民主党である。

 「自由」を守りたいものは立憲民主党を批判すべきである。