「国家権力を制限する権力」としてのマスコミ
かつて「マスコミ」と呼ばれる存在は新聞、ラジオ、テレビであり、とりわけ新聞社、テレビの影響力は著しかった。現在はこれらにネット・メディアも加わりネットでは個人レベルのメディアの活躍も目立っている。
ネットでは新聞、テレビ(以下、既存マスコミ)への批判は大きく、その内容はいわゆる「偏向報道」を批判するものであり、最近では森友学園・加計学園問題の報道を巡りその批判は強まっている。筆者も同様の感想であり既存マスコミは事実を報道するのではなく事実を作ろうとしていると言わざるを得ない。
なぜ既存マスコミは偏向報道を行うだろうか。
「こんな人たち」の政治戦略と同様である。
既存マスコミは政策を検証するのではなく「取材」と称して政治家、官僚の個人情報を収集することでその活動を制約する。
もちろん政治家、官僚の中には違法行為、そこまでいかなくても不道徳な行為をする者もいるからこうした「取材」は必ずしも否定できないが過剰なものはやはり問題である。
既存マスコミは政治家、官僚個人への過剰な取材を通して政治をコントロールするのである。
政治家が国民ではなくマスコミの動向ばかりに関心を寄せるようになってしまったら国民主権も何もない。
というよりも90年代の政治はまさに「政治家がマスコミの動向ばかりに関心を寄せていた」時代であり、それは「迎合」と言ってもよかった。
90年代の政治家は政策を訴えるのではなく「メディアにどう映るか」を意識していたのである。マスコミから見ればこれほど気分の良いものはない。
90年年代の「テレビ政治」の覇者は政治家ではなくマスコミであり、とりわけ田原総一朗の活躍(増長?)が記憶される。
この「テレビ政治」の時代は「国民主権」ならぬ「マスコミ主権」だったと評しても良い。
2001年の小泉政権の誕生により既存マスコミの政権コントロールは若干、低下したが、こうしたマスコミによる政治干渉は民主党政権まで続いた。
というよりも民主党政権はマスコミの政治干渉によって成立したようなものである。
そして民主党政権の崩壊により現在の安倍政権が誕生したわけだ既存メディア、とりわけ「護憲」を掲げる朝日新聞による政権批判は凄まじいものがある。
マスコミは「権力を監視するのが使命」とよく言う。
ではその「監視能力」は誰が保障するだろうか。筆者が既存マスコミに対してこだわりたいのはこの部分である。
かつて読売新聞は1000万部、朝日新聞は800万部を公称した。
現在ではその部数は相当に減っていると言われているがそれでも「巨大」なであることは間違いない。
テレビはチャンネル数が固定され新規参入も制限されている。国民は視聴したい番組が制限されているのである。
新聞がこれほど巨大なのは独占禁止法の適用除外を始めとした「優遇措置」があったからであり、またチャンネル数が固定されていたのもテレビが自由競争を嫌い規制緩和に反対したからである。例えば「新聞の一斉値上げ」など資本主義社会では本来考えられないことである。要するに新聞、テレビは「絵に書いた」ような既得権益である。
そしてこれほど巨大な存在ならば既存マスコミ自身「権力」であることに違いない。まさに「第四の権力」である。
そして既存マスコミは「権力を監視する」の名の下、「国家権力を制限する権力」を目指している。もちろん「権力を制限する権力」は原理的に成立せずだからこそ民主主義社会では権力を3つに分割して相互抑制させている。
民主的基盤のない既存マスコミが国民の負託により成立している国家権力を制限することは国民主権の侵害である。
既得権益であり巨大権力である既存マスコミはそれがゆえネット上で批判に晒されている。
そして既存メディアの一員たる新聞記者、新聞論説員の「質」には相当な疑問符がつく。
最近でも東京新聞所属の望月衣塑子氏は加計学園に対する補助金の交付手続きに関して誤った発言した。一年近く、安倍首相による加計学園への利益供与を疑っていながら彼女は補助金手続きへの初歩的な知識が欠けていたのである。
彼女は「権力を監視する」と息巻くがそもそも彼女には権力を監視する能力がないのである。
「ジャーナリズムは頭が良い」という声を今の若者はどれだけ支持するだろうか。そして意地悪な人間ならば「ジャーナリズムは頭が良い」と呼ばれていた時代も単に情報発信手段をジャーナリズムが独占していたからそう見えたに過ぎないと評するのではないか。
率直に言ってこれほど守られた存在ならば腐敗するのも当然とも言える。
既存マスコミの腐敗はジャーナリズムの権力監視能力を低下させることから肯定する要素は全くない。
そしてジャーナリズムの権力監視能力を高めるためにも既存マスコミへの優遇措置を外資規制を除き全て撤廃しマスコミ間の競争を徹底させる必要がある。
ジャーナリストの資質を確認する国家試験は導入できないのだから競争を徹底させるしかない。
そして優遇措置を撤廃し競争が徹底させれば既存マスコミを構成するジャーナリストは減給と失業のリスクに晒されるわけだが、そのリスクを乗り越えた者こそジャーナリストにふさわしいのである。
100人の望月衣塑子より1人の立花隆の方が国家権力ははるかに肝を冷やす。
国民主権を守り健全な民主主義社会を確立させるためにもマスコミ改革は不可欠である。