保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

赤報隊事件の被害者は「ジャーナリスト」の基準に達していたか

 昨年以来、世間では様々な「ジャーナリスト」が話題になっている。最も有名なのは東京新聞所属の望月 衣塑子氏だろう。

 昨年、8月末に北朝鮮弾道ミサイルが日本上空を通過した際に彼女は菅官房長官に対し「日韓合同軍事演習を続けていることが金委員長のICBM発射を促している。ある程度、金委員長側の要求に応えるような働きかけはしないのか?」と質問した。

 北朝鮮の意見を代弁することでどうして同国の行動を抑制することができるのだろうか。北朝鮮情勢は現在、南北首脳会談が開催され表面上、北朝鮮は軟化したが先行きは不透明である。

 この北朝鮮の変化は日米の経済制裁に同国が屈服したとも様々な解釈があるが実情はわからない。ただ北朝鮮の主張を取り入れたから軟化したとは考えにくい。

 常識的に考えて恫喝国の恫喝を受け入れれば更なる恫喝を招くと考えるのは自然である。望月氏の質問はとても日本の平和に資しているとは思えない。

 続いて「エビデンス? ねーよそんなもん」と発言した朝日新聞編集委員高橋純子である。もっともこれは彼女へのインタビュー記事の表題でこの表現は氏の著作「仕方ない帝国」から引用である。

 高橋氏の「エビデンス? ねーよそんなもん」はインタビューの表題に過ぎなかったが、しかしそのインタビューも全て安倍政権の批判というより単なる悪口である。この言葉が収録された「仕方ない帝国」も内容もどうでも良いものばかりである。同著は「コラム」という体裁を採っていることから仮に批判を受けた場合、「あれはただのコラムです。記事ではありません」という予防線を張っているのが透けて見える。

 最近では財務省福田事務次官によるセクハラで話題になった「テレビ朝日女性記者」も挙げられるが、彼女はセクハラ被害を所属するテレビ朝日の女性上司に報告したが、これが無視、放置され結局、福田事務次官の録音音声を週刊誌に提供したという。

 もっともこの録音音声は「編集」されたものであり、実際はわからない。そしてこの女性記者は事実上、セクハラ被害を勤務先から強要されたわけだが、このことはテレビ朝日の人権感覚が疑われるとともに、一方でこの女性記者がそもそも「ジャーナリスト」の基準に達していなかったという推測も成立する。

 「あの娘は所詮、その程度の存在」というやつである。

 偶然だろうが昨年から現在に至るまで話題になった記者は全て女性である。そして彼女達が話題になったのもジャーナリストとして「良い質問をした、良い記事を書いた」というものではない。

 望月氏の質問は冗長で要点がまとめられておらず決して上手いとは言えない、いや、はっきり言って下手な部類である。

 彼女の著作「新聞記者」の帯文も「大きな声で、わかるまで私にできることは問い続けること」と書かれている。意地悪な人間なら「自分の知識不足を大きな声で誤魔化しているだけではないか」と言うかもしれない。

 また高橋氏が朝日新聞上でコラムを連載しているが内容は「だまってトイレをつまらせろ」とか「「こんな人たち」に丁寧始めました」とかこんなのばかりである。本人は「おもしろい毒舌」を述べているつもりだろうか。

 更にセクハラ被害を受けたとされる「テレビ朝日女性記者」は確かにセクハラにあったかもしれないが、一部では彼女は福田事務次官とのやりとりで「女性的挑発」を行ったとも指摘されている。これが事実ならばとてもジャーナリストの対応とは言えない。

 新聞、テレビに所属するジャーナリストはよく「ジャーナリストは権力を監視するのが使命だ」と言う。職業意識が高いことは結構なことだがではジャーナリズムの権力監視能力は誰が保障するのだろうか。

 「ジャーナリストは頭が良い」などと今の時代どこまで通用するのだろうか。この表現は過去のものであると言わざるを得ないし、過去にそう言われたのも意地悪な人間ならばマスコミが情報発信手段を独占していただけと言うかもしれない。

 論を戻すならば日本のジャーナリズムの権力監視能力を保障するものはない。通常、人間の能力を客観的に評価する手段としては「試験」が利用される。

 しかしジャーナリズムの権力監視能力を審査するために「国家試験」のようなものを導入することは甚だ現実的ではない。「国家試験」はそれこそ政府の介入を招きかねない。だから「試験」によるジャーナリズムの権力監視能力の審査は不可能である。

 「試験」ではジャーナリズムの権力監視能力は保障できない。とするとやはり「競争」しかない。新聞、テレビなどのマスコミ間の競争、要するに知識・情報面での競争を活発化させることでジャーナリズムの権力監視能力を保障するのである。

 この文脈で言えば独占禁止法の適用を除外する新聞社への優遇措置はもちろん、少し前に話題になった放送業界への新規参入規制を緩和する放送法改正は積極的に推進すべきだが既存のマスコミはこれに強く反対した。

 国民が触れる情報量が増大することが社会に不利益をもたらすという思考は独裁者のそれと同じであり、とてもジャーナリズムの思考とは言えない。

 要するに日本のジャーナリズムは根拠もなく自らは権力監視能力があると思っているのである。

 前記した望月、高橋等のジャーナリストの発言、振る舞いを見てもとても「権力監視能力」を有しているとは思えない。

 彼女らにとって「ジャーナリストは権力を監視するのが使命だ」という表現は自分の能力不足を誤魔化す「言い訳」だろう。

 「なんだかよくわからないが権力者を困らせているから良いではないか」の次元である。もちろんこれは権力を監視したことにならない。

 現在の新聞、テレビは完全なる保護産業であり、そのことが権力監視能力に強い疑義を持たせている。新聞、テレビは権力を監視することが使命だと言うならば各種優遇措置を辞退するか、もっと言えばその廃止を主張すべきだろう。

 言うまでもなく競争原理の徹底がジャーナリズムの権力監視能力を保障するのである。もちろん各種優遇措置が撤廃されてマスコミ間の競争が徹底されれば既存の少なくないマスコミ人が減給と失業のリスクに晒される。しかしそれはそれでやむを得ない。 

 世界のジャーナリストでは文字通り命をかけて取材している者もいる。それと比較したら減給と失業のリスクなど大した話ではない。受け入れるリスクである。ジャーナリストの数が減少しても「質」が向上すればそれで良い話だけである。100人の望月 衣塑子より1人の立花隆である。

 さて、ここまでジャーナリズムの権力監視能力の保障を妨げるものとしてマスコミへの各種優遇措置の撤廃を提言したが。これらの優遇措置は昔からあった。

 だから昔のジャーナリストの権力監視能力もどの程度のものだったのか疑わしいと言わざるを得ない。

 この観点から言えば朝日新聞阪神支局が襲撃されたいわゆる「赤報隊事件」で犠牲になった新聞記者達は本当にジャーナリズムの基準に達していた疑わしい。

 筆者は言論に対しる暴力には強く反対する立場である。一方で最近のジャーナリストの言動、振る舞いを見るとどうしてもこの事件の被害者の「権力監視能力」に関心を持ってしまう。

 この事件の被害者でよく話題に上るのが小尻記者であり、もちろん彼は朝日新聞所属の「新聞記者」であるが、ジャーナリストとしての能力については特に示されていない。「新聞記者」の肩書があるからと言って、その人物が新聞記者の水準に達しているかは別次元の話である。仮に亡くなった小尻記者が望月 衣塑子レベルの知的水準の持ち主ならばこの「赤報隊事件」の評価も抜本的に改めなくてはならない。

 悲しい殺人事件だったが少なくとも「言論へのテロ」とは評価できない。もちろんこれは仮定の話である。

 繰り返しになるが筆者は言論に対する暴力には強く反対する立場である。

 しかしジャーナリズムの権力監視能力を保障するものがないならば「赤報隊事件」の

被害者の権力監視能力に関心を持っても良いだろう。

 そしてこのことからは朝日新聞赤報隊事件の被害者の知的水準を評価したものを可能な限り公開すべきである。