「イナゴ」としての日本型リベラル
自由民主党の杉田水脈氏が新潮45で「LGBT」について論じ、その文中で「生産性がない」と評したことについて波紋を呼んでいる。「LGBT対するヘイトスピーチである」といった具合でLGBT支援団体などが自民党本部前で抗議集会を開催し杉田氏の議員辞職すら求めている。
確かに「生産性がない」といった表現は適当とは思えないが文章全体を読めば杉田氏の趣旨がLGBTへの過剰な優遇措置への批判であり排除を意図したものではないことは明らかである。
もちろん適当ではない表現がある以上、その訂正は必要かもしれない。またLGBT支援団体が一定の抗議をするのもやむを得ないだろう。
要はこの問題の本質は杉田氏の表現力不足、もっと言えば知識不足であり知識がないならば氏に注入すれば良いだけである。
それはLGBT支援団体による書面の提出といった形で足りる。杉田氏の知識不足への対応は平和かつ穏健に対応できるものであり、何よりも与党議員がLGBTに対して正確な知識を持つことはLGBT当事者にとっても利益のはずである。
自民党のLGBT施策は支持できないが立憲民主党のLGBT施策は支持できるといった理屈はない。
問題はLGBT当事者に対し「あなたは差別されていますよ」とか「あなたは被害者ですよ」と言った言説を吹き込み対立・衝突を煽る勢力がいることである。それは言うまでもなく日本型リベラルである。
例えば自民党本部前での抗議集会に安保法制への国会前デモで名を馳せた元SEALDsの奥田愛基氏が参加したことが話題になった。
「あのSEALDsの奥田君も支援してくれる!」という反応は正しいのだろうか。正しいのは「何故SEALDsの奥田君がここいるのか」という反応ではないか。
元SEALDsの奥田氏の関心はあくまで安保法制に対してだけであってLGBT問題ではないはずである。
「弱者を守る」とか「ヘイトを許さない」といった理由で部外者(日本型リベラル)が問題に介入し実に安易に対立・衝突を煽り返って問題を複雑化させ解決を遠のかせている。
もちろんデモは国民の権利であるが過激化すれば無党派層の離反は招き逆に縮小してしまうし、また群集心理の作用次第ではともすれば暴徒化しかねない。
暴徒の攻撃先が政党本部ならばそれは我々国民の代表者を攻撃することを意味し、国民主権の侵害に他ならない。
日本型リベラルにとって「ヘイト」「弱者」「被害者」「抑圧者」と言った言葉は現実の「弱者」「被害者」に寄生するための手段である。
やや強い表現になるがこれら日本型リベラルは「イナゴ」のような存在である。
「弱者」「被害者」に寄生しそれを食いつぶし破綻させる。
具体的に言えば「弱者」「被害者」を決して自立させず「逆差別」を発生させる。
「逆差別」が成立すれば「弱者」「被害者」は無党派層から白眼視され社会から支援されるどころ逆に孤立し傷つく。
日本型リベラルは「弱者」「被害者」が社会から孤立し運動として限界が生じたらまた別の「弱者」「被害者」を探し寄生する。そしてまた食いつぶす。その繰り返しである。
これが日本型リベラルの正体であり杉田氏の言葉を借りればまさに「生産性がない」人々である。
日本型リベラルは「弱者」「被害者」を決して救わないし彼・彼女らを「駒」として使い社会の対立・衝突・分断を煽る勢力である。
日本型リベラルは「市民」を自称しまるで「国民の代理人」のごとく振舞うが、彼・彼女らの発言、振る舞いを見る限りとても「市民社会の内」に居るとは思えない。むしろ「市民社会の外」に居る存在である。
日本型リベラルの本質は正規の手続きでは市民社会に参加できない「脱落組」である。ジャーナリスト、大学教授は違うのではないかと思うかもしれないが日本のマスコミ・アカデミズムは競争原理が機能しない既得権益であり完全に腐敗しており、とても「市民社会の内」にいるとは思えない。やはり「市民社会の外」に位置し寄生しているだけである。
過激なデモに参加している者は控えめに言って長期不況の被害者なのだろうが少なくとも合わせる必要はない。
我々はこの「イナゴ」から身を守るための手段を真剣に議論しなくてはならない。