保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「テレビ朝日女性記者」の採用試験結果の公開を

 今回は急遽、予定を変えて世間を賑わせている「財務省事務次官セクハラ疑惑」について述べたい。

 世間は「財務省事務次官セクハラ疑惑」で揺れている。財務省の福田事務次官テレビ朝日所属の女性記者に「セクハラ」を行ったのではないかという疑惑があり、その証拠として録音音声が公開された。

 福田事務次官と思われる男性の発言は男女問わず嫌悪を誘うものであることは間違いない。この騒動を受けて日本維新の会を除く立憲民主党を始めとする野党各党は麻生財務大臣の辞任を求め国会審議を拒否している。

 一方で話題となった「録音音声」は編集されたものであり、福田事務次官の音声しかない。また「セクハラ被害」を受けたとされる「女性記者」は「セクハラ被害」を女性上司に報告したが無視され、その結果として彼女は録音音声を週刊誌に提供した。

 この騒動に関して筆者なりの感想を述べれば「情報不足」の一言に尽きる。

 「セクハラの証拠」とされた録音音声は編集されたものであり、当然、福田が本当にこの「女性記者」に対して話したのかもわからない。

 一部で指摘されているように「繁華街飲食店勤務の女性」に対して話したのかもしれない。仮に福田の発言相手が「繁華街飲食店勤務の女性」ならばそもそも「女性記者」は「セクハラ被害」を受けていない。更にこの「女性記者」は福田に対して一種の「女性的挑発」をしたのではないかとも指摘されている。もしこれらが事実ならばこの騒動の評価も相当に変わるのではないだろうか。この「女性記者」に対しては当初、財務省の顧問弁護士に名乗り出ることが求められたが、これに対しては「二次被害を招く」という批判が出ている。

 今回の騒動で特に話題なったのがテレビ朝日の対応である。「女性記者」の「セクハラ被害」の相談を受けていながらその直属の女性上司はそれを1年半以上も事実上、無視した。

 これではテレビ朝日も「セクハラ被害」を黙認していと言われてもしょうがないし、1年半という期間を考えれば「セクハラを受け入れろ」と強要したようなものである。

 これを見る限りテレビ朝日内における女性記者一般の地位は相当に低いと言わざるを得ない。テレビ朝日は「女性を知的能力で採用していない」と言われてもしかたがないし、もっと言えばテレビ朝日の女性の採用基準は性別が特に注目されていたかもしれない。当然、それは「男の視点」であり「セクハラ被害」を主張する「女性記者」に強要された役目を考えれそう言われて仕方がない。

 今回の騒動が長引けば長引くほどテレビ朝日所属の女性記者一般は「ジャーナリストではなく品のないタレント」と見られるだけである。

 繰り返しになるが今回の騒動を驚くほど情報不足である。

 「福田事務次官」「女性記者」「テレビ朝日」という単語が飛び交っている。

 この「女性記者」の存在が「フィクション」だとしても成立するレベルの情報不足である。もちろん「フィクション」は冗談であるが、やはり焦点は「セクハラ被害」を受けた主張する「女性記者」である。

 彼女への批判は「二次被害を招く」恐れがあり許されないと言われるが、しかしマスコミの人間に対して「二次被害を防ぐべきだ」というのはまるで冗談のような話である。

 現在の日本でもっとも「二次被害」を引き起こしているのがマスコミである。

 殺人事件の被害者のその家族は事前の了承もなく顔と名前がテレビなどを通じて世間に公開され、好奇の対象となる。これは明らかに「二次被害」だろう。他人に「二次被害」を強要しているマスコミがなぜ自分だけ「二次被害」を主張し顔と名前を公開しないのか。

 だから筆者としては今回の騒動のように「二次被害」を理由にこの「女性記者」の顔も名前も公開されないことに違和感を覚える。そして実際の被害の有無も不明なのだ。

 顔も名前もわからないからこの「女性記者」が何者かもわからない。「身を守るために録音した」と主張するが、これは彼女の論理に過ぎず、はっきり言ってただの「盗聴」である。  

 そして何よりも彼女の「セクハラ被害」を退けたのはテレビ朝日であり、この部分を集中的に議論しないと意味がない。「セクハラ」は基本的に雇用関係、指導関係と言った拘束された上下関係で発生するものであり「取材相手」とでは本来的には発生しない。女性記者が取材相手から性的な表現をされ不快な思いをした場合、男性記者に変えれば良いだけである。

 要するにテレビ朝日はこの「女性記者」を配置転換すれば良かっただけである。

 日本のジャーナリズムは「権力を監視するのが使命である」とよく主張する。

 職務意識が高いのは結構なことだが、問題はジャーナリズムの権力監視能力は誰が保障するのだろうか。

 「ジャーリストは頭が良い」などと今の時代どこまで通用するのだろうか。この表現は過去のものであると言わざるを得ないし、過去にそう言われたのもマスコミが情報発信手段を独占していただけに過ぎないかもしれない。

 論を戻すならば現在、日本のジャーナリズムの権力監視能力を保障するものは何もない。

 人間の能力を客観的に評価する手段としては通常「試験」が利用される。もちろん新聞、テレビ各社は採用試験を実施しているがそれはあくまで各社によって異なるから客観的評価は期待できない。客観的評価が期待できる「試験」とはマスコミ各社共通の「公開試験」である。

 だからジャーナリズムの権力監視能力を審査するために「公開試験」をすれば良いがそれは甚だ現実的ではない。「国家試験」はそれこそ政府の介入を招きかねないしマスコミ人が作成する試験も結局のところ試験作成者が「関係者」なのだから問題漏洩の可能性も否定できない。「公開試験」の内容は第三者が作成すべきだがこの「第三者」が正直、思いつかない。だから「公開試験」によるジャーナリズムの権力監視能力の審査は不可能である。

 「公開試験」ではジャーナリズムの権力監視能力は保障できない。とするとやはり「競争」しかない。新聞、テレビなどのマスコミ間の競争、要するに知識・情報面での競争を活発化させることでジャーナリズムの権力監視能力を保障するのである。

 この文脈で言えば少し前に話題になった放送業界への新規参入を緩和する放送法改正は積極的に推進すべきだが周知のとおり既存マスコミはこれに強く反対した。

 国民が触れる情報量が増大することが社会に不利益をもたらすという思考は独裁者のそれと同じであり、とてもジャーナリズムの思考とは言えない。

 要するに日本のジャーナリズムは根拠もなく自らが権力監視能力があると思っているのである。

 今回の騒動で顔も名前も権力監視能力の有無もわからない「女性記者」なる存在が事態を動かし国会を空転させ国政を停滞させている。そして前記したようにこの「女性記者」を通じてテレビ朝日の女性記者一般の採用基準にも疑念が持たれた。

 要するにテレビ朝日所属の女性記者は権力監視能力が疑われているのである。

 だから我々国民は権力監視能力のない、もっと言えばジャーナリズムの基準に達していない記者の肩書を持つ女性に国政の停滞を強いられているかもしれないのである。  

 穿った見方をすればこの「女性記者」はジャーナリズムの基準に達していないからテレビ朝日に利用された可能性も否定できない。

 これがどれだけ重大なことかは容易に想像できるのではないか。

 だから我々国民が知りたいのは「セクハラ被害」を主張する「女性記者」の知的水準である。「公開試験」が存在しないマスコミでそれを完全な意味で知ることはできないがそうだとしてもテレビ朝日は彼女の知的水準を測るものを可能な限り公開すべきである。

 これを踏まえて筆者が即座に想起するものはこの「女性記者」の採用試験とその点数である。また定例の人事考課の内容であるテレビ朝日はこれらを我々国民に公開すべきだろう。顔も名前も知的水準もわからない「女性記者」が国政に停滞をもたらしている事実は極めて重い。

 だからテレビ朝日はこの「女性記者」の権力監視能力を我々国民が理解するための参考情報として「採用試験とその点数」そして「人事考課の内容」を国民に対して公表すべきである

 

 

 最後に筆者なりに日本における「セクハラ対策」について述べたい。

 日本では「セクハラ対策」として「男性の意識」がよく指摘され、それは間違いではないが日本の議論であまり話題にならないのが「時間と空間における公私の区別」である。

 日本では業務終了後の職場の飲み会でも上下関係は消えない。職場の人間関係は職場外でも続くことが多く「グレーゾーン」と呼ばれるものを含めれば日本社会では「公私の区別」を線引することは極めて困難なのではないか。

 これは日本的慣行で職場の結束を高める上では効果的かもしれないが、職場の力関係が酒席の場などに持ち込まれることこそがセクハラを誘発するものではないだろうか。

 だから日本社会での「時間と情報における公私の区別」を改めて検討してみるべきだろう。一方で記者は職業柄「公私の区別」は線引しづらいのも事実である。

 しかし「セクハラ被害」を防止したければ女性記者に「夜回り」などの取材を行わせる必要があるのかはやはり検討すべきだろう。

 もちろん「女性の視点」で取材相手に質問することも重要だがそれは女性記者が事前に質問内容を作成し男性記者に代理に質問してもらえれば済む話である。

 今回の騒動を機に職場での日本的慣行とマスコミの取材方法を改めて検討すべきである。