保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

国家を超越した「リベラル」

 日本のリベラルの特徴はリベラルな社会を建設することでなく「敵」を設定、攻撃することで自己正当化を図る勢力に過ぎないことは既に指摘した。

 そして日本のリベラルがこのような存在になった原因として

 

進歩主義

・責任ある立場を回避

・公開討論を避ける日本の議論文化

 

を挙げた。これら3つの要因が「三重奏」を弾き驚くような攻撃性をリベラルに付与している。

 

 これらについてもう少し詳細に論じよう。「進歩主義」はその名称のとおり「進んだ思想」とか「正しい思想」であり元々「異論」に対しては厳しい態度を取る。

 リベラルにとって「異論」は「遅れた」ものであり「進歩」とは「遅れ」を克服するものであるから厳しいのは当然である。進歩主義が異論を「敵」と判断するハードルは低い。

 そこに「責任ある立場の回避」が加わる。

 かつて日本社会党国会議員の公認候補を絞り自ら政権獲得を拒否した。社会党は「万年野党」を選択し同党に近いマスコミ・学者は「ストッパー」とか「歯止め」としてこれを肯定的評価した。

 政権獲得を拒否し「チェック役」としての立場を支持する考えは現在でも野党に根強く例えば日本共産党は国政選挙のキャッチフレーズに「確かな野党」を採用したほどである。「野党は与党に反対するもの」という考えは戦後日本に深く根付いていると言っても良く、それを根付かせたのが55年体制である。

 一方で55年体制下の政党たる民社党委員長の西尾末広は「政権を取らない政党は鼠を取らない猫と同じだ」と評したとも言われる。

 政党で言えば政権を取らない、知識人で言えば政治家にならないといった「責任ある立場を回避する」ということは結局、どういう結果を生むのかというと「理想と現実」の狭間に立たなくなるのである。ここでは進歩主義は「理想」であり非進歩主義は「現実」と置き換えればわかりやすいのではないか。

 日本では「理想」と「現実」が対立関係にあるように論じられることが多い。

 9条を支持する護憲派改憲派から「お花畑」と揶揄され、逆に9条改正を支持する改憲派は文字通り「現実派」と表現されたが戦後日本の論壇では「現実派」は侮蔑表現だった。

 しかし「理想と現実」は対立関係にあるわけではない。「理想」とは「現実」を克服していくことを通じて実現するのである。理想の実現には現実に一歩踏み出す勇気が必要がある。

 だから護憲派は「9条の理想」を掲げ護憲の正当性を訴えるも、これは全世界の諸国が軍隊廃止を同意したとき実行すれば良いだけの話であり、それまでは国際標準の軍事理解、つまり軍隊とフルスペックの集団的自衛権の保持を通じて日本の平和を維持すれば良いだけの話である。9条改正は9条の理想を決して否定するものではない。

 しかし前記したように日本のリベラルは「責任ある立場」を自ら拒否した。

 「責任ある立場」になることは「理想」と「現実」の距離を縮め共通点や接点を探り理解を共有していくことであり「進歩主義=理想」を実現して行くことである。

 「想像していたのと異なっていた」というのはよくある話だし、それは決して悪いことではない。「責任ある立場」になることでリベラルは自らが考える「理想」を「現実」にいる人間に対して説得する作業が求められるのである。

 それは「三歩進んで二歩下がる」「あちらが立てばこちらが立たず」の世界であり求められるのは知識よりも忍耐力である。

 ここではリベラルが自分の「理想」をどこまで本当に実現したいのかが問われる場面である。そしてなにより「責任ある立場」になることで他人を説得する技術が身につくのである。

 そういう意味では「責任ある立場を回避する」という日本のリベラルの姿勢は致命的とも言える。実際、リベラルに対する非難の多くはその内容よりも振る舞いではないだろうか。

 そして最後に日本の議論文化が加わる。日本は公の場で議論することを避ける風潮があり「打ち合わせ」と称した「会議前会議」が意思決定することが多い。有名なのは国会で国会議員による内閣に対する質問は事前に「質問主意書」に書くことが求められ、その内容に応じて内閣が回答、つまり国会答弁する。

 つまり政府は事前に何を質問されるのか知っているのだ。そこに「真剣勝負」はなくだから国会論戦は一種の「儀式」となる。「公開討論の儀式化」が日本の議論文化であり、そこに事実上「討論」はない。

 誤解のないように強調すれば「公開討論の儀式化」は必ずしも悪いことではない。

 事前に相手の意見を聞くことでその意見について密な検証を経て相手方に回答できるし、また質問者も丁寧な回答を否定することはないと思われる。

 一方でこのような議論はそれこそ国会のような賛成・反対派が同じ空間に存在することで成立するものあって一般社会ではそれほどではない。公開討論の習慣がない日本の議論文化では「異論」を持つ他者を説得することよりも仲間・友人との同調が優先される。

 そのため「異論」との交流は深まらず、当然、接点も持たずやがて「敵」となる。また自説も偏り最悪「カルト」化し、それが更に「異論」をより高度な「敵」と認定させる。

「異論」は説得の対象であり共通点を探り距離を縮める対象であるが「敵」は打倒・殲滅の対象であり相違点を探り異質性を確認し、攻撃するのである。

 以上の「三重奏」が日本のリベラルの攻撃性を高めついにはそれを目的化させるのである。

 特に二つ目に挙げた「責任ある立場からの回避」は極めて重い。日本では行政側に政策情報が集中している。例えば外交・安全保障情報は秘密情報が多いことは容易に想像できる。

 しかしリベラルは政策情報に触れないので自らが考える「理想」がますます現実離れのものとなり、他人を説得する能力も身につかないから攻撃性を加速させる。

 控えめに言ってこうしたリベラルは自らが少数派であることを自覚している。

 戦後、左翼・リベラルは基本的に与党になることはなく、なったとしてもそれは例外で当然、政権担当能力もない。だから無視、放置しても構わないのではないかという意見もあるだろう。 

 しかしリベラルは自分達が少数派であることは自覚している。だからこそ彼らは首相官邸・国会といった政府中枢を攻撃するのである。「多数派の中枢を攻撃する」ことがリベラルの基本戦術である。

 また少数派と言っても人間を一箇所に集中させれば小さくない「力」を発揮する。

 首相官邸・国会前デモはこの文脈で実施される。国内では支持者を調達することに限界があるので外国人活動家の動員も厭わない。最近、行われた国会前デモを見る限りデモの主力は老人であり、「活力」があるとは言い難い。こうした力不足を埋めるために外国人活動家が動員されるのである。

 またリベラルが少数派と言っても政治家はもちろん社会的地位の高い者は政府・与党を除けば基本的に「強者」である。

 例え野党であっても国会議員、地方議員の地位にある以上、その存在感は大きく彼らの活動を制止することは不可能ではないが、そのために多大な労力が割かれる。

 例えば北朝鮮による拉致問題では日本社会党がその存在を否定したことはよく知られているが、最大野党が拉致問題の存在を否定したことで同党と友好関係にあった朝鮮総連への捜査を警察に躊躇させた可能性が高い。

 社会的影響力のあるリベラルは日本国内に「治外法権」を出現させ、そこが外国勢力の日本攻撃の出撃拠点となり我々日本人の平和を脅かすのである。

 そしてリベラルが野党であることを自己選択したことの最大の弊害は国家と憲法の関係の議論をおかしな方向に導いたことである。

 日本のリベラルは例外なく護憲派である。そしてリベラルは憲法を論ずるにあたって「立憲主義」の名の下「憲法は国家権力を制限するものだ」ということを殊更、強調する。

 リベラルの中で「国家権力=悪」であり、それを制限するために憲法はあるのだと主張する。しかし現在の日本の国家権力は民主的選挙を経て成立するものであり「民主政府」と呼ぶこともできる。

 もちろん議院内閣制である以上、完全に民意を反映したものではないし、現在の安倍首相はいわゆる「世襲議員」であり「庶民感覚」があるという印象もないが、そうだとしても選挙で当選して国会議員となり内閣総理大臣に選出された人物である。

 確かに日本の選挙は「一票の格差」と言った小さくない問題はあるがそうだとして選挙を経て内閣が組織される以上、日本の「国家権力」は「民主政府」である。

 もちろんこの「民主政府」には民主的基盤のない官僚も含まれているが、リベラルが特段、官僚に焦点を当てている印象もない。

 そしてこの「民主政府」は国家権力である以上、国家としての役割がある。近代国家生成の歴史を顧みれば国家はまさに「暴力装置」であり、軍隊・警察といった武力機関を有する。

 そしてこれらの「暴力装置」に最も期待されていることは国家を構成する国民を守ることである。現在、日本に欠けているのはこの「暴力装置」たる国家の役割が不十分ではないかということであり、憲法9条の解釈変更もしくは改正もこの文脈にあるに他ならない。

 論を戻そう。リベラルが主張する「憲法は国家権力を制限するものだ」という表現は「憲法は民主政府を制限するものだ」と置き換えることもできる。

 そしてこの野党と言う「外野席」から憲法を通じて国家権力を制限するという思考が重要である。日本のリベラルは国家権力の一員になることを拒否している。そして自らの「理想」をインフレ化させますます現実から乖離し「憲法は国家権力を制限するものだ」というフレーズと連動して最終的にはリベラルは国家を超越するのである。

 そしてここにリベラルの「多数派の中枢を攻撃する」という戦術が加わる。

 現在の国家権力を担うのは「民主政府」であり「民主政府」は多数派であることは論をまたない。要するにリベラルは「立憲主義を守る」とか「9条を守る」を根拠に「民主政府」の中枢を攻撃するのである。

 首相官邸・国会前デモ、首相への個人攻撃を通じて国家権力の中枢を攻撃することで国家を麻痺させ最終的には国家権力を自らの統制下に置く。

 論を整理するならば日本のリベラルは「国家」を悪魔化し自己正当化を図るとともに「国家」の中枢を攻撃することで「国家」を自らの統制下に置き「国家」を超越した権力になることを目指しているのである。

 国家を完全に「破壊」するのではなく「麻痺」させるというのがポイントである。

 国家を「破壊」してしまえばリベラル自らが「国家」の代わりを務めなくてはならなくなるがそれはリベラルの力量を超えた話である。だから「麻痺」させ統制下に置くのである。

 下種な例えではあるがヒモ男が女性に「君を悪いやつから守りたいから僕を家に置いてくれ」というのと同じである。

 こうしたリベラルの政治戦略は「外野席から与党になる」になるとでも言おうか。

 いずれにしろ彼らは思考の中では国家を超越しているし、だからこそ「日本」さえも攻撃対象となる。リベラルは時折、保守派から「反日」とか「売国奴」とか罵られることがあるけれどそれは正確ではない。彼らに何か強力な主義・主張があるわけではない。

 要するに「立憲主義」とか「護憲」を根拠に権力を握りたい、他人より優位に立ちたいだけなのである。

 そしておそらくこういう勢力は戦前にもいたと思われる。それは「国体護持」を訴える観念右翼だろう。要するに戦後のリベラルと戦前の右翼は「思想」は異なるが「思考」は同じなのである。

 論を戻そう。そしてこのリベラルの憲法・国家観で最も利益を得る主体が憲法学者である。もちろん憲法学者に民主的基盤はない。リベラルが目指す日本とは日本国憲法を「聖典」する憲法学者を頂点とする「宗教国家」である。

 そこでは「民主主義」とか「国民主権」という言葉は意味のない記号に過ぎなくなる。