保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「テレビ朝日女性記者」の採用試験結果の公開を

 今回は急遽、予定を変えて世間を賑わせている「財務省事務次官セクハラ疑惑」について述べたい。

 世間は「財務省事務次官セクハラ疑惑」で揺れている。財務省の福田事務次官テレビ朝日所属の女性記者に「セクハラ」を行ったのではないかという疑惑があり、その証拠として録音音声が公開された。

 福田事務次官と思われる男性の発言は男女問わず嫌悪を誘うものであることは間違いない。この騒動を受けて日本維新の会を除く立憲民主党を始めとする野党各党は麻生財務大臣の辞任を求め国会審議を拒否している。

 一方で話題となった「録音音声」は編集されたものであり、福田事務次官の音声しかない。また「セクハラ被害」を受けたとされる「女性記者」は「セクハラ被害」を女性上司に報告したが無視され、その結果として彼女は録音音声を週刊誌に提供した。

 この騒動に関して筆者なりの感想を述べれば「情報不足」の一言に尽きる。

 「セクハラの証拠」とされた録音音声は編集されたものであり、当然、福田が本当にこの「女性記者」に対して話したのかもわからない。

 一部で指摘されているように「繁華街飲食店勤務の女性」に対して話したのかもしれない。仮に福田の発言相手が「繁華街飲食店勤務の女性」ならばそもそも「女性記者」は「セクハラ被害」を受けていない。更にこの「女性記者」は福田に対して一種の「女性的挑発」をしたのではないかとも指摘されている。もしこれらが事実ならばこの騒動の評価も相当に変わるのではないだろうか。この「女性記者」に対しては当初、財務省の顧問弁護士に名乗り出ることが求められたが、これに対しては「二次被害を招く」という批判が出ている。

 今回の騒動で特に話題なったのがテレビ朝日の対応である。「女性記者」の「セクハラ被害」の相談を受けていながらその直属の女性上司はそれを1年半以上も事実上、無視した。

 これではテレビ朝日も「セクハラ被害」を黙認していと言われてもしょうがないし、1年半という期間を考えれば「セクハラを受け入れろ」と強要したようなものである。

 これを見る限りテレビ朝日内における女性記者一般の地位は相当に低いと言わざるを得ない。テレビ朝日は「女性を知的能力で採用していない」と言われてもしかたがないし、もっと言えばテレビ朝日の女性の採用基準は性別が特に注目されていたかもしれない。当然、それは「男の視点」であり「セクハラ被害」を主張する「女性記者」に強要された役目を考えれそう言われて仕方がない。

 今回の騒動が長引けば長引くほどテレビ朝日所属の女性記者一般は「ジャーナリストではなく品のないタレント」と見られるだけである。

 繰り返しになるが今回の騒動を驚くほど情報不足である。

 「福田事務次官」「女性記者」「テレビ朝日」という単語が飛び交っている。

 この「女性記者」の存在が「フィクション」だとしても成立するレベルの情報不足である。もちろん「フィクション」は冗談であるが、やはり焦点は「セクハラ被害」を受けた主張する「女性記者」である。

 彼女への批判は「二次被害を招く」恐れがあり許されないと言われるが、しかしマスコミの人間に対して「二次被害を防ぐべきだ」というのはまるで冗談のような話である。

 現在の日本でもっとも「二次被害」を引き起こしているのがマスコミである。

 殺人事件の被害者のその家族は事前の了承もなく顔と名前がテレビなどを通じて世間に公開され、好奇の対象となる。これは明らかに「二次被害」だろう。他人に「二次被害」を強要しているマスコミがなぜ自分だけ「二次被害」を主張し顔と名前を公開しないのか。

 だから筆者としては今回の騒動のように「二次被害」を理由にこの「女性記者」の顔も名前も公開されないことに違和感を覚える。そして実際の被害の有無も不明なのだ。

 顔も名前もわからないからこの「女性記者」が何者かもわからない。「身を守るために録音した」と主張するが、これは彼女の論理に過ぎず、はっきり言ってただの「盗聴」である。  

 そして何よりも彼女の「セクハラ被害」を退けたのはテレビ朝日であり、この部分を集中的に議論しないと意味がない。「セクハラ」は基本的に雇用関係、指導関係と言った拘束された上下関係で発生するものであり「取材相手」とでは本来的には発生しない。女性記者が取材相手から性的な表現をされ不快な思いをした場合、男性記者に変えれば良いだけである。

 要するにテレビ朝日はこの「女性記者」を配置転換すれば良かっただけである。

 日本のジャーナリズムは「権力を監視するのが使命である」とよく主張する。

 職務意識が高いのは結構なことだが、問題はジャーナリズムの権力監視能力は誰が保障するのだろうか。

 「ジャーリストは頭が良い」などと今の時代どこまで通用するのだろうか。この表現は過去のものであると言わざるを得ないし、過去にそう言われたのもマスコミが情報発信手段を独占していただけに過ぎないかもしれない。

 論を戻すならば現在、日本のジャーナリズムの権力監視能力を保障するものは何もない。

 人間の能力を客観的に評価する手段としては通常「試験」が利用される。もちろん新聞、テレビ各社は採用試験を実施しているがそれはあくまで各社によって異なるから客観的評価は期待できない。客観的評価が期待できる「試験」とはマスコミ各社共通の「公開試験」である。

 だからジャーナリズムの権力監視能力を審査するために「公開試験」をすれば良いがそれは甚だ現実的ではない。「国家試験」はそれこそ政府の介入を招きかねないしマスコミ人が作成する試験も結局のところ試験作成者が「関係者」なのだから問題漏洩の可能性も否定できない。「公開試験」の内容は第三者が作成すべきだがこの「第三者」が正直、思いつかない。だから「公開試験」によるジャーナリズムの権力監視能力の審査は不可能である。

 「公開試験」ではジャーナリズムの権力監視能力は保障できない。とするとやはり「競争」しかない。新聞、テレビなどのマスコミ間の競争、要するに知識・情報面での競争を活発化させることでジャーナリズムの権力監視能力を保障するのである。

 この文脈で言えば少し前に話題になった放送業界への新規参入を緩和する放送法改正は積極的に推進すべきだが周知のとおり既存マスコミはこれに強く反対した。

 国民が触れる情報量が増大することが社会に不利益をもたらすという思考は独裁者のそれと同じであり、とてもジャーナリズムの思考とは言えない。

 要するに日本のジャーナリズムは根拠もなく自らが権力監視能力があると思っているのである。

 今回の騒動で顔も名前も権力監視能力の有無もわからない「女性記者」なる存在が事態を動かし国会を空転させ国政を停滞させている。そして前記したようにこの「女性記者」を通じてテレビ朝日の女性記者一般の採用基準にも疑念が持たれた。

 要するにテレビ朝日所属の女性記者は権力監視能力が疑われているのである。

 だから我々国民は権力監視能力のない、もっと言えばジャーナリズムの基準に達していない記者の肩書を持つ女性に国政の停滞を強いられているかもしれないのである。  

 穿った見方をすればこの「女性記者」はジャーナリズムの基準に達していないからテレビ朝日に利用された可能性も否定できない。

 これがどれだけ重大なことかは容易に想像できるのではないか。

 だから我々国民が知りたいのは「セクハラ被害」を主張する「女性記者」の知的水準である。「公開試験」が存在しないマスコミでそれを完全な意味で知ることはできないがそうだとしてもテレビ朝日は彼女の知的水準を測るものを可能な限り公開すべきである。

 これを踏まえて筆者が即座に想起するものはこの「女性記者」の採用試験とその点数である。また定例の人事考課の内容であるテレビ朝日はこれらを我々国民に公開すべきだろう。顔も名前も知的水準もわからない「女性記者」が国政に停滞をもたらしている事実は極めて重い。

 だからテレビ朝日はこの「女性記者」の権力監視能力を我々国民が理解するための参考情報として「採用試験とその点数」そして「人事考課の内容」を国民に対して公表すべきである

 

 

 最後に筆者なりに日本における「セクハラ対策」について述べたい。

 日本では「セクハラ対策」として「男性の意識」がよく指摘され、それは間違いではないが日本の議論であまり話題にならないのが「時間と空間における公私の区別」である。

 日本では業務終了後の職場の飲み会でも上下関係は消えない。職場の人間関係は職場外でも続くことが多く「グレーゾーン」と呼ばれるものを含めれば日本社会では「公私の区別」を線引することは極めて困難なのではないか。

 これは日本的慣行で職場の結束を高める上では効果的かもしれないが、職場の力関係が酒席の場などに持ち込まれることこそがセクハラを誘発するものではないだろうか。

 だから日本社会での「時間と情報における公私の区別」を改めて検討してみるべきだろう。一方で記者は職業柄「公私の区別」は線引しづらいのも事実である。

 しかし「セクハラ被害」を防止したければ女性記者に「夜回り」などの取材を行わせる必要があるのかはやはり検討すべきだろう。

 もちろん「女性の視点」で取材相手に質問することも重要だがそれは女性記者が事前に質問内容を作成し男性記者に代理に質問してもらえれば済む話である。

 今回の騒動を機に職場での日本的慣行とマスコミの取材方法を改めて検討すべきである。

「こんな人たち」列伝~白井聡の場合~ その2

 前回の記事で白井の日米同盟観を批判した。そして今回は白井の「戦後日本観」について論じたい。

 白井は戦後の日本人が「欧米人に対するコンプレックス(劣等感)とアジア諸民族に対するレイシズム」を有していると評価する。これに基づき戦後の日本人は日米同盟を背景に「アジアにおける唯一の一等国」とか「他のアジア人を差別する権利」の意識を持っているとも評価する。

 まず戦後日本の最大の特徴は「経済成長」であることは論をまたない。バブル崩壊以降、日本は長期不況に突入したが戦後日本の最大の特徴はやはり「経済成長」である。

 現在の日本人でも「飢餓」を恐れる者は基本的にいないと思われる。

 そして白井の言う「欧米人に対するコンプレックス(劣等感)」は戦後日本では同じく白井が言うところ「アメリカに追いつけ追いこせ」という感情に変化し、その結果、経済成長が達成され1980年代にはアメリカを追い抜く経済大国になるのではないかと評されたほどである。

 白井が「コンプレックス」という感情をどのように評価しているか知らないが「コンプレックス」が経済成長を果たすのならそれはそれで結構なことである。そして戦後日本の経済成長はアジア諸国に影響を与えた。

 白井は触れていないが中国、韓国と言ったアジア諸国の経済成長も日本からの経済援助を端に発している。白井の言葉を借りるならば「欧米人に対するコンプレックス」がなければ現在の中国も韓国も経済成長をしていなかったはずである。

 経済成長を果たしていない中韓両国は「貧困国」の次元に留まり、それは東アジアの国際政治に大きな影響を与えていたに違いない。弱体な韓国を北朝鮮が恐れるとは考えにくく「第二次朝鮮戦争」が勃発していたかもしれない。

 経済大国たる日本の対アジア援助が被援助国の国力の増大と地域の安定化に貢献したのは間違いない。

 また戦後の日本人が「アジア諸民族に対するレイシズム」を有していたのならばそもそも日本は中国、韓国と言ったアジア諸国に経済援助をしていなかったはずである。

 もちろん日本の対アジア経済援助は「共産圏への対抗」とか「事実上の戦後賠償」とか様々な意味を含んでいた。日本政府もこれら経済援助の「政治的意味」を曖昧にしてきたのは間違いない。それが現在「歴史認識問題」として跳ね返っている。

 論を整理するならば戦後の日本人が「日本人の欧米人に対するコンプレックス(劣等感)」を有していなかったら日本はもちろん中国、韓国と言ったアジア諸国も「貧困国」に留まっていた可能性がある。

 そして戦後の日本人が長期間、明日の食事すら困る貧しい状態だった場合「アジア諸民族に対するレイシズム」は生まれないということはあり得るだろうか。逆ではないか。

 「レイシズム」は豊かな状態よりも貧しい状態で発生すると考えるのが普通である。

 歴史を顧みれば第一次世界大戦後に極度な経済的混乱に陥ったワイマール・ドイツで「反ユダヤ主義」を掲げたナチスが台頭したことはよく知られているし、別に歴史を引用しなくても貧しい状態の方が人間の心が荒み排他性が増すということは常識でわかるはずである。

 そして白井の言う「アジア諸民族に対するレイシズム」にはどうも中国、韓国両国との間にあるいわゆる「歴史認識問題」も含まれているようである。

 しかし日本はこの「歴史認識問題」で中韓両国に配慮して教科書の記載内容の基準として「近隣諸国条項」を設けたり、また、いわゆる「元慰安婦」へ「償い金」を支給するために「アジア女性基金」も設立した。

 このように中韓両国に配慮している日本がどうして「アジア諸民族に対するレイシズム」を有していると言えるのだろうか。

 日本が「レイシズム」を有しているのならこれらの措置は採らなかっただろうし、中国、韓国両国から「歴史認識問題」を突き付けられたとき、日本は断固拒絶の姿勢を示していたに違いない。誤解を恐れずに言えばその方が案外、日中、日韓関係は安定したいかもしれない。

 以上のように白井が論ずる戦後日本には著しい偏見がありとても同意できない。

 言うまでもなくこの白井の理解の知的土台は「永続敗戦論」である。

 そして次回はこの「永続敗戦論」を踏み込んで考察したい。

 

 

「こんな人たち」列伝~白井聡の場合~ その1

 日本のリベラルの特徴は「リベラルな社会」を構想することではなく「リベラルの敵」を攻撃することである。リベラルは「弱者」とか「被害者」に関心を寄せるが、これらあの人々を救済する手段は考えず、その「敵」に着目する。リベラルは「弱者の敵」「被害者の敵」裏返して言えば「強者」「加害者」を攻撃することで自己正当化を図る。

 もちろん他人を攻撃して自己正当化する者など「リベラル」でもなんでもなく安倍首相の言葉を借りれば「こんな人たち」で十分である。

 さて、今回は具体的な人物を取り上げて「こんな人たち」について論じたい。

 2013年に「いける本大賞」「石橋湛山大賞」「角川財団学芸賞」の3つ受賞した「永続敗戦論」という本がある。著者は白井聡京都精華大学専任講師であり1977年生まれであることから受賞当時は「若手知識人」の注目株のように評価された。

 現在も戦後史、時事問題に積極的に発言しており最近では「国体論 菊と星条旗」を著しておりその活動が注目されている。

 筆者は白井氏の著作を可能な限り読んでいるが彼の名を上げた「永年敗戦論」を含め白井氏の思想・思考には強い疑問を持っている。

 白井が唱える「永続敗戦」の中核は「敗戦の否認」であり具体的には「敗戦の帰結として政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに穏便する」というもので、その結果として「日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない」とされる。

 白井の言う「対米従属」とはもちろん日米同盟・在日米軍の存在であり、この両者の存在を背景に日本は「国内及びアジアに対しては敗戦を否認してみせる」とする。

 白井が言うには戦後日本はアメリカを背景に中国・韓国との間に生じているいわゆる「歴史認識問題」の積極的解決を回避しているということである。

 そして日米同盟を中核とする「永続敗戦」を支えているのが「戦後保守」であり、それは白井の理解ではSF小説家畜人ヤプー」の登場人物であり「完全に家畜化された白人信仰を植えつけられた日本人は、生ける便器へと肉体改造され、白人の排泄物を嬉々として飲み込み、排泄器官を口で清めるのである」とも言う。

 白井の理解では「戦後保守」はまさに「奴隷」である。そしてこうした「戦後保守」の奴隷意識を支えているのが「日本人の欧米人に対するコンプレックス(劣等感)とアジア諸民族に対するレイシズム」とも言う

 しかし外国と軍事同盟を結ぶことがどうして「従属」になるのだろうか。確かに外国軍隊は駐留している現実は異例である。しかしそれは必要だから駐留しているのであり、それはアメリカと軍事同盟を締結しているヨーロッパ諸国、韓国も同様である。

 確かに日米同盟は締結当初は「占領の継続」という意味合いが強かった。1951年に締結された日米同盟は米軍による「内乱鎮圧条項」が規定されていたことをよく知られており、これは在日米軍による内政干渉を合法化した条項に他ならなかった。そして「占領の継続」という色彩の強かった日米同盟を「改定」したのが岸信介である。

 「戦後保守」というと通常、吉田茂池田勇人佐藤栄作と言ったいわゆる「保守本流」を指すことがほとんどであり岸信介とそれに連なる勢力は「保守傍流」と表現され基本的に「戦後保守」には含まれない。

 しかし白井の理解では「保守本流」と「保守傍流」の区別は特段なされていない。白井にとって「対米従属=日米同盟」であることから両者の区別はないのだろう。

 当たり前だが戦後日本が日米同盟を締結したのは自らの判断でありアメリカに強要されたものではない。白井は現在の沖縄の辺野古基地反対運動に関与している猿田佐世氏が提唱した「自発的対米従属」という言葉を用いて日米同盟締結の選択を卑近なもののように論じている。自ら「従属」を選択する姿勢は白井にとって「奴隷」そのものなのだろう。 

 しかし、この「自発的対米従属」という言葉も妙な言葉である。

 通常「従属」とは他人から強要されたときに使う言葉である。「自発的」に選択したことは「従属」とは言わない。

 だから「自発的対米従属」という言葉は語義矛盾である。戦後日本は自らの平和のために自発的に日米同盟を選択したのだから「対米従属」ではない。

 戦後の日米関係は「対米依存」という言葉が適当だろう。そして戦後日本が「対米依存」を選択した理由は防衛コストを低水準に抑えることができたからであり、その選択の結果として戦後の繁栄があった。

 だから「対米依存」は経済的には十分、合理的なものである。よく議論されるのは日本人の精神、意識の部分である。外国への「依存」は不健全であり積極的に肯定できるものではない。何よりも「対米依存」は永続的に保障されたものではない。

 アメリカが日米同盟を廃棄すればそれまでであり、実際に日米同盟には廃棄手続きの規定があるほどだ。戦後日本の「対米依存」はまさにアメリカの一存次第である。

 そしてこの関係を見直す手段はそれほど難しくない。「依存」とは要は本人の意識の問題だから日本人の意識次第で「対米依存」から脱却できる。

 安全保障面における「対米依存」の見直し、裏返して言えば「対米自立」とは要するに「自主防衛」の確立に他ならない。在日米軍と第7艦隊が提供している「抑止力」を日本自らが建設することである。

 具体的にはは防衛力の大幅な増加が必要であり、それは一方で社会保障費、教育費と言ったいわゆる「民生費」を抑制ないし削除させる。要するに「自主防衛」の選択は国民の生活水準が下がる可能性がある。また「自主防衛」を選択するならば安全保障論議の混乱要因である憲法9条の改正は当然だろう。「自主防衛」はまさに「言うは易く行うは難し」である。

 だから戦後日本が「対米依存」を選択し続けたのは「自主防衛」の「現実」を理解していからであり、確かにそれは褒められたものではないかもしれない。しかし「合理性」はある。

 戦後日本による合理的判断の帰結としての「日米同盟」であり、こうした判断ができる人間は「奴隷」でもなんでもない。白井の言う「白人信仰」でもなんでもない。あるいは「欧米コンプレックス」で日米同盟を締結したとでも言うのだろうか。

 安全保障政策の最大の判断基準は「生命の確保」である。依存先が「かつての敵国」であった事実は「屈折した感情」をもたらしたかもしれないが、それを許容しなければならないほどの「現実」が戦後の国際情勢であった。日米同盟を論ずる場合、重要なのはこの「現実」だろう。

 筆者は白井の日米同盟観をとても支持できない。

 しかしこうした筆者の意見に対して白井から反論が聞こえてきそうである。

 

 

 

立憲主義は取り戻さなくて良い~「こんな人たちの独裁」を拒否せよ~

 現在「立憲主義を取り戻す」がリベラル派界隈では最大の政治スローガンになっている。野党第一党たる立憲民主党もこれを意識してか「立憲主義を回復させます」を最大の公約にしている。

 この「立憲主義を取り戻す」をスローガンにリベラル派は結束し安倍政権を批判している。

 2010年代に入りこの「立憲主義」という言葉は政治を動かしている。 

 ではリベラル派が目標とする「立憲主義を取り戻す」が実現した場合、日本社会はどうなるのだろうか。リベラル派の「立憲主義」に関する各種発言を見てそれは大体見えてきた。

 

sasa456.hatenablog.com

 

 既に触れたようにSEALDsの後継団体たる「ReDEMOS」は日本国憲法を超越した「憲法適合性審査委員会の設置」を主張した。

 また政治の世界では立憲民主党の枝野代表は「立法権内閣総理大臣の権力は何によって与えられるか。選挙と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかない。」とか「立憲主義とセットになって初めて民主主義は正当化されます」と主張している。

 枝野氏の理解では「立憲主義」と「民主主義」は車の両輪の関係にあり、たとえ選挙で多数派を形成したとして「立憲主義」を満たさなければその多数派は民主的正統性を確保できない。

「民意」を反映させる国政選挙の結果、国会で議席数を過半数確保しようが、3分の2確保しようが「立憲主義」を満たさなければ民主的正統性が確保できないのである。

 これではいかなる政党も多数派を獲得しようとしないだろう。「多数派の獲得を目指す」というのは裏返して言えば魅力的な政策を練り、他人を説得する行為でもある。

 要するに枝野流の「立憲主義」では政党は政策を考えず他人を説得しなくなるのである。とても「立憲主義」が民主主義に貢献しているとは思えない。

 この「立憲主義」に関するリベラル派の各種発言を踏まえて「立憲主義を取り戻す」が実現した社会とは何かと結論づけるならば、それは日本国憲法に規定された国家権力を超越した権力が支配する社会である。そしてその権力は民主的基盤を持たない。

 リベラル派は「憲法とは国家権力を制限するものだ」とし、それこそが「立憲主義」と述べる。 注目点は「国家権力を制限する」という部分である。

  リベラル派にとって国家権力は制限する対象に過ぎないが問題はこの国家権力を誰がどのように制限するかである。日本国憲法に規定された国家権力とは行政・立法・司法の三つであり、近代憲法の成立過程を考えれば最大の制限対象は行政であることは間違いない。

 そして行政活動を制限したいならば政権与党を掣肘すべく国会で多数派の形成を目指すとか国会審議を活発化させるとかあくまで国会での活動が主なる。

 ところが日本のリベラル派は「政権与党」という「責任ある立場」を獲得する選択を自主放棄しているから野党的立場から、もっと言えば外野席から「立憲主義」なる言葉を殊更強調し「国家権力を制限する」を行うのである。

 要するにリベラル派は国家権力の圏外に立ちその制限を目指すのである。

 リベラル派の立ち位置はあくまで国家権力の圏外にあり、彼らの意識の中では国家権力より上位にあると言っても良いだろう。

 そしてリベラル派が自らを国家権力より上位にあることを正当化する言葉として「立憲主義」がある。

 「立憲主義」は国家権力より上位にあり、言い換えれば日本国憲法より上位にある、もっと言えば日本国憲法を超越している。

 この思考の具現化が「ReDEMOS」が提案した「憲法適合性審査委員会」である。

 別に新組織を設立しなくてもリベラル派は「立憲主義」の名の下、日本国憲法に規定された国家権力を操作することができる。それは新聞、テレビから成る既存マスコミを利用することである。

 既存マスコミは国家権力の中枢に居る政治家、官僚の個人情報の収集を通じて両者を攻撃し彼らを操作しようとする。現在、既存マスコミは森友・加計学園問題関係で安倍首相夫妻への個人攻撃を強めているが、それはこの文脈にある。

 相手方の中枢を攻撃することを通じて、その相手方を支配下に置くことは既存マスコミがもっとも得意とする手法である。「中枢を攻撃する」という意味では職業的活動家から成る国会前デモも極めて有効である。

 要するにリベラル派は既存マスコミと集団圧力を通じて日本国憲法を超えようとしている。そしてそれを正当化する言葉が「立憲主義」なのだ。

 だから「立憲主義を取り戻す」が実現した社会とは「リベラル派の独裁」が成立した社会であり、その社会で頂点に立つのは「立憲主義」の最高かつ最終の解釈者たる憲法学者である。当然、憲法学者は民意を反映した存在ではない。

 そしてこの社会では既存マスコミの構成員たる新聞記者や職業的活動家がやりたい放題できる社会でもある。「保守」の人間など「立憲主義に反する」の名の下、両者から攻撃されるだけだろう。新聞記者が「取材」と称して「保守」の人間の個人情報を盗みだしそれを職業的活動家に流す。当たり前だが職業的活動家は何をするかわからない存在である。

 日本のリベラルの実情を考えれば「こんな人たちの独裁」という表現がもっとも正確である。

 以上のことを踏まえて言えることは立憲主義は取り戻さなくて良い」ということだ。この言葉は政治利用された本来の意味を失った。そして本来の意味を失わせたのは「こんな人たち」に他ならない。 

「こんな人たち」と「みっともない憲法」~安倍首相の慧眼~

 日本のリベラルの特徴は「敵」を設定、攻撃し自己正当化を図るだけであり、

通常、このような勢力は「リベラル」とは評価しない。

 リベラルが驚くほど攻撃的な理由は下記のとおりである。

 

(イ) 進歩主義

(ロ) 責任ある立場からの積極的回避

(ハ) 公開討論が過小評価される日本の議論文化

 

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   (イ)については既に述べた。

 「進歩主義」の立場にあるリベラルから見れば「現状維持」は「遅れ」「歪み」であり否定、攻撃の対象に過ぎない。むしろ攻撃することが相手のためであると思っている節すらある。

 次に(ロ)についてだが日本のリベラルは責任ある立場に就くことを積極的に回避する。戦後日本には冷戦まで現在のリベラルの「前段階」とも呼べる「左翼」が存在した。

 「左翼」の代表格である日本社会党は国政選挙において立候補者数を限定し国会で過半数を獲得することを自ら拒否した。日本社会党は「万年野党」を自主選択したのである。「万年野党」とは要するに対案を示さない「反対のための反対」「批判のための批判」である。もちろん攻撃的である。

 「進歩主義」は元来、攻撃性を含意するが「万年野党」の自主選択がそれを加速させた。

 最後に(ハ)であるが、日本では公開討論の習慣がなく仲間内での議論が優先、深められることが多い。仲間内での議論が深化することで議論が「純化」し最悪「カルト化」してしまうことすらある。

 日本の議論文化では「異論」は拝聴するものではなく否定の対象である。公開討論を通じて相手の主張との共通点を探り距離を縮めるのではなく相違点を見つけ、そこを攻撃する傾向があるのが日本の議論文化である。

 この日本の議論文化の悪影響は左右問わず及んでいる。

リベラルは自らを進んだ立場にあると考え、だからと言ってそれを実現するために責任ある立場には就かず外野から非難し仲間内でそれを共有し攻撃を加速させていくのである。

 繰り返しになるが日本の「リベラル」はとても「リベラル」とは呼べず安倍首相の言葉を借りれば「こんな人たち」で十分である。

 「敵」を攻撃することで自己正当化を図る「こんな人たち」だが、彼らの頭の中には彼らが意識する「敵」と対称となるものが存在する。それは「護憲」である。

 「こんな人たち」は日本国憲法聖典化し外野席からその履行を政府に迫る。

 しかし憲法はあくまで「国民の利益」の増進を達成するため手段であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 リベラルは「憲法に規定された平和主義は人類の理想で最先端で素晴らしいものだから改憲してはならない」と言うが平和主義は憲法に規定されたから素晴らしいのではなく素晴らしいから憲法に規定されたものに過ぎない。

 日本国憲法に規定された条文が平和主義を達成するとは限らない。既存の条文で平和主義が達成できないのならば改正すれば良いだけである。

 現在の憲法9条改正論議もこの域の議論に過ぎない。

 しかし「こんな人たち」のように憲法聖典化してしまうと憲法は国民から遊離してしまう。憲法聖典化はその解釈者たる憲法学者の影響力を絶大なものにし国民主権を形骸化してしまう。

 憲法聖典化は憲法学者を「神」にしてしまう。だから聖典化した憲法はもはや憲法ではない。憲法学者の支配の根拠に成り下がるだけである。

 他人を攻撃することでしか自己正当化できない「こんな人たち」の活動の根拠になり国民主権を形骸化してしまう危険性すら孕んだ日本国憲法は安倍首相の言葉を借りれば「みっともない憲法」と呼ばざるを得ない。

 そして「こんな人たち」と「みっともない憲法」という言葉を発明した安倍首相は慧眼の持ち主である。

 論を戻そう。

 この「みっともない憲法」を聖典化する「こんな人たち」は民意を反映した多数派の中枢を攻撃することで多数派をコントロール下に置き「護憲」を履行させる。

 現在の首相夫妻への魔女狩り的な個人攻撃や国会前デモはその例である。

 人間で例えれば頸動脈を押さえられている状態であり多数派の意思を封殺する。

 要するに「こんな人たち」は民意を封殺する民主主義の破壊者なのだ。

 現在の日本は「こんな人たち」と「みっともない憲法」が両者一体となって日本の平和と民主主義の障害になっている。最近では「こんな人たち」は量的不足を補うためか外国人活動家を来日させている。「国連特別報告者」はこの一例である。

 「こんな人たち」はまさに外国の脅威を日本に招いている。

 日本の平和と民主主義を守るためにも「こんな人たち」と「みっともない憲法」をまとめて退場させるしかない。

 もちろんその手法は平和的でなくてならない。その具体的な手法は改憲であり憲法9条2項を削除である。憲法9条2項を削除すれば「こんな人たち」は活動の根拠を失う。

 もちろん憲法9条改正に進みだせば「こんな人たち」は多数派中枢への攻撃を加速させるに違いない。だから「多数派の所在地」である国会、首相官邸の安全と平穏は絶対に確保しなくてはならない。

 両施設を守るためにも最低でも警察官の増員は必要である。また世論が許すならば両施設への接近を制限する権限を現場警察官に付与することも検討されよう。相手を傷つけない防御をいくら強化しても問題はない。むしろ「こんな人たち」が攻撃を断念する水準まで防御力を高めるべきである。

 ここでは改憲実現のための「こんな人たち」対策の一例として警察官の増員と施設への接近制限を挙げたが、これらは対処療法に過ぎず根本療法とは言えない。

 改憲の基本は改憲論議を盛り上げ改憲支持の世論を増やして行くことである。

 防御力を高め不当な干渉を排しつつも世論への訴求を通じて味方を増やして行く。

 このように衝突を避け、誰も傷つけずに目的(改憲)を達成する姿勢、思考を忘れてはならない。 

 

 「こんな人たち」と「みっともない憲法」は確実性を持って日本社会から退場させるのである。

「戦後レジームからの脱却」とは何か

 安倍首相はその政治活動において「戦後レジームからの脱却」を目指している。 

 安倍首相の口から「戦後レジーム」の具体的な定義・内容が述べられたことはないが「戦後レジームからの脱却」の絶対条件に日本国憲法の改正が含まれているのは間違いない。

 安倍首相の中で「戦後レジーム」と「日本国憲法」は密接に関連している。 

 筆者が安倍首相の考えを忖度して「戦後レジーム」と「日本国憲法」の関連性を指摘するならば「戦後レジーム」とは戦後、GHQが日本から奪い破壊したものを日本国憲法が制度的に固定化した体制、あるいは日本国憲法による永続的な歴史的共同体たる「日本」を否定する体制を指す。

 では日本がGHQから奪われた、あるいが日本国憲法によって現在進行形で否定されている歴史的共同体たる「日本」とは何だろうか。

 それを大胆に単純化して表現すれば「尊皇と自主防衛」の精神である。

 「尊皇」とは「皇室を敬愛する心」であり「自主防衛」とは「自分の国は自分で守る」という気概である。

 まず「尊王」について述べよう。

 世論調査をみても「象徴天皇制」を支持する国民は圧倒的であるが一方で皇室への無関心が強いこともよく指摘される。

 戦後の左翼・リベラル勢力は現在にいたるまで皇室に冷淡である。皇室の長たる天皇の存在は日本国憲法によって規定されているが憲法学者による憲法解釈では「天皇は象徴に過ぎない」と消極的解釈がなされている。

 この消極的解釈自体、天皇そのものへの警戒・否定の現れである。

 憲法学者の主流はで天皇を積極的に評価すること自体が国民主権に反する、国民主権が危うくなる、もっと言えば憲法学者を中心に左翼・リベラル勢力は天皇国民主権を矛盾・対立関係と評価している。

 そこに「尊王」は全くない。

 言うまでもなく天皇日本国憲法に規定されているから存在しているわけではなく天皇が存在しているから日本国憲法に規定されているのである。

 歴史的に見ても天皇は「摂政・関白」「征夷代将軍」の任命など日本の国制・政治制度に形式的儀礼的ではあるが一定度関与してきた。

 そうした歴史を持つ天皇がどうして国民主権に反する存在なのだろうか。

 天皇国民主権は矛盾・対立関係になく両立関係にある。この戦後特有の天皇への消極的・否定的評価こそが「戦後レジーム」の一角である。

 ではもう一角の「自主防衛」はどうか。

 国際社会において「自分の国は自分で守る」という考えは自明の理であるが、戦後日本では敗戦の反動からか意識的避けられた。

 「自主防衛」とは要は他国からの日本への侵略を排する、あるいは日本への侵略を思い留まらせるための十分な軍事力を持った軍隊を国民自らが持つことである。

 しかし戦後日本ではこれは意識的に避けられた。戦争の悲惨さを経験した人々が戦争を想起させる「軍隊」なるものを忌避するのは当然の感情だろう。

 確かに軍隊が存在しなければ戦争は起きない。もちろんそれは世界の全ての国が軍隊を放棄することが前提である。

 また「自主防衛」を確立する軍隊を持つことは人的にも予算的にも多大なコストが求められる。戦後間もない日本でこのような巨額のコストはとても調達できなかったし政治的に徴兵制のような国民に強制力を伴うような制度を導入することはとてもできなかった。

 それどころか日本国憲法9条2項の条文を素直に読めば軍隊の設置そのもの禁止しているとも解釈できる。これが安全保障論議を混乱させ、それは今に至るまで続いている。

 そして自主防衛は「多大なコスト」という現実と憲法9条2項から来る安全保障論議の混乱も相まって断念しなくてはならなかった。そして戦後日本が選択したのは日米同盟の締結である。

 しばしば戦後の日米関係はしばしば「対米従属」と評されることがあるけれど、この「従属」のほとんど全部は安全保障面での従属であり、そしてそれは日本自らが望んだものであった。

 日米同盟は決してアメリカから強要されたものではない。我々日本人の選択の結果である。このことを誤魔化してはならない。

 日本自らが望んだものだから日米同盟を論ずる場合「従属」という表現は不適切であり適切な言葉としては「依存」がふさわしく、それを踏まえて言えば戦後の日米関係は「対米依存」という表現が最も適切だろう。

 戦後日本は、この「対米依存」を通じて防衛コストを最小限に抑え経済成長、国民一般の生活水準の向上を実現した。

 戦後の「対米依存」は少なくとも経済的には多大な利益をもたらしたことから、それは合理的な戦略だったと言えよう。 

 一方でアメリカ相手に限らず一般的に「依存」は決して健全とは言えない。

 また「対米依存」が自発的なものである以上、日本だけの都合で成立するものでもない。言うまでもなくアメリカが応じなければ成立しない。

 アメリカが日本の防衛に責任を持てるのはアメリカの圧倒的な国力が大前提でありそれは永続的に保障されたものではない。

 しかし「自主防衛」はまさに「言うは易く行うは難し」であり、その実現には段階を踏む必要がある。

 順序としてはまずは安全保障面において憲法解釈の変更などを通じて日本を「普通の国」にすることである。この理解に基づき秘密保護法、安保法制が制定され、これらの施策はまさに「戦後レジームからの脱却」の第一歩と言えよう。

 そして憲法9条が日本の安全保障論議を混乱させていることは明らかであることから9条改正が「戦後レジームからの脱却」に含まれることは言うまでもない。

 このことから「戦後レジームからの脱却」とは「尊王と自主防衛」の確立であり、この2つを阻害しているのが日本国憲法である。

 天皇への消極的解釈を発生させる余地を生まないためにも憲法上における天皇の地位を変更する必要がある。天皇を「国家元首」と規定すればいかなる憲法学者も消極的解釈が示せないだろう。

 また安全保障論議を混乱させている憲法9条2項を削除すれば護憲派は解体し、より現実的な安全保障論議ができるだろう。それが「自主防衛」の確立に続くのである。

 他にも細かな部分は多々あると思われるが憲法1条と9条の改正が「戦後レジームからの脱却」の核心であることは間違いない。

 単純化して言えば天皇自衛隊日本国憲法の拘束から解放することが「戦後レジームからの脱却」と言える。

 

 

 

進歩主義と「敵」~リベラルの源流を探る~

 リベラルは昨今の北朝鮮情勢を鑑み「安倍政権は外敵の脅威を強調し支持を集めている」と批判する。

 北朝鮮の脅威は現実に存在するものであり安倍首相がこれを殊更強調しているという印象はない。むしろ抑制的に対応していると言えよう。

 もっとも政治ではときおり自己正当化の手段として「敵」を設定、攻撃することが行われる。今の日本でこれを積極的に行っているのは他ならぬリベラルである。

 日本のリベラルの特徴は「リベラルな社会」を建設することではなく他人からリベラルと評価されたいだけである。

 安倍政権を「敵」と解釈し容赦なく攻撃する。「敵」は否定の対象であり拝聴に値しない。その文脈でリベラルの攻撃は安倍首相、昭恵夫人への個人攻撃までに発展している。

 政治における「敵」について政治学カール・シュミットは友と敵の区別が政治の本質と評したことはよく知られる。

 カール・シュミットナチス・ドイツ政権下でヒトラーの個人独裁を肯定する理論を提供した人物である。

 政治学者ならば政治における「敵」の存在の危険性について触れるべきだがカール・シュミットはむしろその存在を肯定した。カール・シュミットはまさに「劇薬」である。

 そして常識的に考えれば「寛容」や「多様性」を重んじるはずのリベラルは本来、「敵」の攻撃に執着しない。もっと言えば「敵」の存在を否定する姿勢こそリベラルの本来あるべき姿である。

 だから日本のリベラルは「リベラル」の仮面を被る「こんな人たち」と言ってしまえばそれまでだが、彼らを突き動かしているものはなんだろうか。

 それは「正義」「大義」の類である。

 世界史を雑駁に顧みて宗教戦争国民国家の戦争(第一次世界大戦)、イデオロギー戦争(第二次世界大戦)などを観ても「正義と正義」「大義大義」の衝突、要するに「聖戦」はまさに血で血を洗う闘いであり相手を殲滅するまで徹底して行われる。

 だから「聖戦」を避けることが政治にもっとも求められることである。

 もっとも多くの人は冷戦が終わり、もはや強力な「正義」「大義」は存在しないと思うかもしれない。果たしてそうだろうか。

 前記した「聖戦」の歴史をよく見てみると「聖戦」はキリスト教圏で起きていることがわかる。もちろん、宗教戦争は別として新約聖書を読めば「聖戦」を肯定してしまうというわけではない。要するにキリスト教の歴史的役割をどう評価するという点である。

 ヨーロッパではキリスト教から解放されることが「近代化」と評価されている。

 「啓蒙思想」はもちろん「フランス革命」もまた政治における教会の位置づけが極めて重視された。

 宗教からの解放こそが「近代化」という評価は依然として強い。

 そしてキリスト教から解放された、より正確に言えば教会が政治勢力として完全に微弱となった19世紀、ヨーロッパはまさに世界を制覇した。

 19世紀以降、世界を制覇した「ヨーロッパ帝国主義」はキリスト教から解放されたヨーロッパ諸国の一つの到達点と言えよう。

 そしてここで対比したいのはキリスト教が政治・社会の全てを支配していた「ヨーロッパ中世」である。

 「暗黒の中世」という言葉はもはや「死語」であり「ヨーロッパ中世」が長く存在した最大の理由はヨーロッパの中世人がそれに満足していたからである。 

 そこに特段の不合理はないが、そうだとしてやはり外国人の筆者から見ても「ヨーロッパ中世」は前史たるローマ帝国史と比較しても力強さに欠ける印象がある。

 ヨーロッパでは「中世」という停滞した時代を克服した、言い換えれば「歴史が進歩した」結果、ヨーロッパは劇的に発展したという歴史認識は根強いと思われる。

 要するに何が言いたいのかというと欧米には「進歩主義」というものがあり、これこそがリベラルの源流である。

 「進歩」に反するものは「現状維持」であり、ここに「進歩主義」の「正義」「大義」が生まれる。

 「進歩主義」に反する「現状維持」は「遅れ」「歪み」に過ぎず否定の対象である。    

 もっと言えば「現状維持」は「敵」である。過去に世界を席巻した共産主義社会主義もまた「進歩主義」の一つである。

 「進歩主義」の理解では「現状維持」を「敵」と認識、否定し「進歩主義」を徹底した社会こそ「正しい社会」というものである。

 また「進歩主義」は「敵」の存在を容認している。だから「進歩主義」は攻撃性、排他性を含意している。

 日本のリベラルもまた「進歩主義」の攻撃性、排他性を発揮している。そして日本のリベラルの「進歩主義」には間違いなく「護憲」が含まれている。

 「護憲」を徹底すること、憲法9条を護持することが日本のリベラルにとって「進歩主義」が徹底された「正しい社会」なのである。

 筆者は必ずしも「進歩主義」を否定するものではないが、その攻撃性、排他性には不満を持つものである。とりわけ安全保障分野でのリベラルが主張する「進歩主義(=護憲)」は極めて危険なものと考える。

 そして「進歩主義」の攻撃性、排他性を中和するのが「保守」の役割と考える。