保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

日本型リベラルの生息地を考える

 日本型リベラルが世界のリベラルとは似て非になる存在であることはよく指摘される。

 日本型リベラルは戦後日本に「大日本帝国の実在」を嗅ぎ取り、それへの「抵抗」「対決」を主張する。その手法はもっぱら「院外運動」であり好まれるのはデモである。一方でリベラル系マスコミによる反社会的な取材方法も見逃せない。「夜討ち朝駆け」の名目による特定個人のプライバシーの侵害、メディア・スクラムという集団的威圧も注目される。

 「抵抗」「対決」路線を強調し過ぎたためデモには過激分子が流入し、それが一般人のデモへの忌避感を生み、デモへの参加者は減少した。90年代以降、デモに積極的に参加する者は「プロ市民」とまで呼ばれるようになった。もちろんこれは侮蔑的表現である。

 東日本大震災に伴う原発事故や安保法案を巡りデモは活性化したように見えたがやはり全体としては低調傾向である。

 いかなる存在も自らの勢力を拡大させたければ大衆を意識する。デモなど大衆を意識しなければ拡大しようもないはずだが日本型リベラルにその意識は希薄であり、前記したように過激分子の流入を阻止しなかった。

 デモを担う主体はいつの時代も労働組合だが、とりわけ官公庁系労働組合は過激で有名であり旧国鉄労働組合の戦闘力はよく知られた。官公庁系労働組合が過激化した理由は言うまでなく彼(女)らが倒産リスクのないある種の既得権益だったからである。

民間企業の労働組合ならば闘争如何によっては「共倒れ」になる。だから労使協調が進む。しかし官公庁系労働組合にはこの種の制約要因はない。

 またリベラル系マスコミがメディア・スクラムで特定個人の攻撃が行えるのは言うまでもなく日本のマスコミもまた既得権益だからである。「新聞代金の一斉値上げ」など本来なら許されないことである。

 更に彼(女)らは批判されれば「報道の自由」を叫びそれに抵抗するし実際にどの抵抗に成功している。時々、テレビでマスコミ幹部が政治情勢を語ることがあるが、総じて思うのは高齢者が多いということだ。読売新聞社長の渡邊恒雄氏も相当な高齢であり、マスコミ幹部でこそないが田原総一朗氏も同様である。80、90歳を超えた老人に世の中の何がわかるのだろうか。まさに「年寄りの冷や水」である。

 そして高齢者が幅を利かすことは既得権益の典型的特徴であり内部にまともな競争原理は作用していないのである。そしてこのメディアを媒介して自説を発信するのがリベラル系学者である。政策として大学は普通、潰さない。むしろ増やすものである。だから淘汰のリスクも基本的にはない。

 また人文系学問は客観的評価が難しいため競争原理が働きにくい。人文系学問の世界では教授と学生の間に前時代的な「師弟関係」が築かれているのが実情ではないか。だからそう意味では大学もまた既得権益とも言える。

 論を整理すれば日本型リベラルの生息地は官公庁系労働組合、マスコミ、大学であり皆、雇用不安がなく競争原理が働かない既得権益である。反社会的な行動をしても組織自体が潰れるわけではないから彼(女)らはいくらでも増長する。

 中長期的に見ればこうした増長・過激化・偏向が彼(女)ら自身の衰退を招いているのだが、それでもしぶとく活動し政治・社会を混乱させているし、むしろ日本国憲法を守るためならば日本を滅亡させても構わないという勢いである。

 仮に日本型リベラルに「日本国憲法のない日本を愛せますか」と質問すればほとんど全部が「愛せない」と言うだろう。

 彼(女)らが守りたいのは日本ではなく日本国憲法である。日本国憲法聖典化し同憲法と自らを同一化して「選民」意識を醸成している。

 論を戻そう。日本型リベラルの生息地は基本的には既得権益であり、要するに法に基づき「特例」扱いを受けているだけである。だから日本国憲法下でもその改革は可能である。憲法改正に向けて必要な作業はまずこれら既得権益の解体だろう。