保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

リベラルを包含する日本の「保守」

 戦後日本でイデオロギー闘争が低調になってどのくらいになるのかわからないが冷戦終結が一つの起点になっているのは間違いない。イデオロギー闘争は例えば経済や福祉の分野では主流にならないが憲法、安全保障の分野では依然、幅を利かせている。

 それは言うまでもなく「保守」「リベラル」という対立軸である。

 昨年の総選挙では立憲民主党が自らを「保守」と位置付け話題を集めた。

 「保守」「リベラル」の分類は政治の世界では積極的に行われている。もっとも政治は党派抗争という性質を持つからある意味、当然である。

 リベラルについては筆者は既に記した。そこで本稿では「保守」について論じたい。

 日本の「保守」の最大の特徴は原理的思想がないことである。「保守」の立場で皇室を否定するものはいないが、一方で皇室は思想ではない。海外の「保守」とは雑駁に言えば宗教であり欧米ならばキリスト教である。キリスト教的価値観への姿勢が「保守」「リベラル」を決めている。そして宗教である以上、聖典が存在する。これが決定的に重要である。

 聖典がある、もっと言えば文書化されたテキストがあるという事実は運動に活力を与える。守るべき文章の存在は「ここにこう書いている」「ここには書いていない」といった具合で実にわかりやすい。しかし日本の「保守」には聖典とかテキストといったものはない。皇室と深い関係にある宗教は神道だがこれも聖典、経典と呼べるものがない。だから日本の保守はある意味「緩い」とも言える。

 もともと日本は「無思想こそ思想」と呼ばれる風土であり、強固な思想は確立しなかった。周辺に原理的思想があっても日本は島国だからその流入も限定的で容易に日本化する。そのため歴史的に見ても日本の政治機構は強力な中央集権ではなく連合を基礎とし、例えば天皇は権力が無力化され終には祭祀的儀礼的存在となった。武家政権徳川幕府成立までは中央政権は決して強力とは言えず、強力だった徳川幕府も「藩」の存在を認める分権的政治体制であった。

 日本は政治も宗教も総じて「緩く」また「融通無碍」だった。このように融通無碍が容認される風土では「保守」もまた融通無碍である。融通無碍的保守は「強さ」「活力」を感じられず否定的評価されることが多い。

 しかし筆者は日本の「保守」は融通無碍であるからこそ一方で自由・平等・寛容といった欧米発のリベラルな思想を吸収できたと考える。皇室の存在さえ否定しなければ保守はリベラルの価値観を決して否定しない。だから日本の「保守」はリベラルを包含しており、やや大胆な表現を使えばリベラルの土着化が日本の「保守」と言い方もできる。

 このようにリベラルを包含した「保守」は「寛容な保守」という表現が最も適切である。  

 これは昨年、誕生した希望の党が打ち出したスローガンであるが、同党は初心に帰ってこれを考究してみてはどうか。

 論を戻すが日本の「保守」は融通無碍でリベラルを包含しており、このことは日本型リベラルの存在意義を奪った。更に日本型リベラルの特徴である「責任と現実の積極的無視」そしてその裏返しとしての「保守」の政権担当能力の充実が日本型リベラルの先鋭化を進め大衆的支持を失わせた。「保守」がリベラルを包含し、政権与党を担当し満点でこそないが基本的に社会が成立しているならば日本においてリベラルは不要という評価もできるし、率直に言って筆者はその立場である。

 今の日本型リベラルはもはやリベラルとは言えず、その実態は日本国憲法聖典化しリベラル用語を駆使し「弱者」に寄生し対立・衝突を煽り社会を分断させるだけの存在に過ぎない。

 彼(女)らとのやりとりはまさに不毛・浪費であり、政治レベルでは国会を空転させている。また外交レベルでは「敵の敵は味方」理論を採用し外国人活動家を日本に誘致したり、憲法9条を守りたいがために中国・北朝鮮の側に立ち「侵略の呼び水」という性格すら持つ。

 それでも「批判することに意義がある」と言った次元で日本型リベラルを正当化するものもいるかもしれない。「批判のための批判」が「容認」されるのは批判対象が巨大なものに限られる。戦後日本で言えば経済成長を続けていた日本自身とそれを実現させていた自民党である。

 しかしもはや日本は経済成長が著しい国とは言えないし、経済の長期停滞の結果、自民党も弱体化した。「安倍一強」は所詮、批判のためのレッテル貼りに過ぎない。自民党の基盤は昭和の時代に比べれば相当程度低下し高齢化も進んでいる。有力な支持基盤だった建設業界も公共事業の削減により弱体化した。今は無党派層が非・反リベラルの立場であり、その反動で支持を受けているに過ぎない。大体「批判のための批判」とは批判の根拠を示さないのだから説得不可能であり、単なる議事妨害である。常識で考えればわかるはずである。

 論を戻すならば保守がリベラルを包含している以上、もはや日本型リベラルは不要であり、積極的に解体していく必要がある。憲法9条2項が削除されれば日本型リベラルは完全に解体されるが、それが難しいのが現実である。しかし粘り強く改憲運動をしていく他ない。また「保守」「リベラル」といった議論はどうしても観念的になり大衆から遊離してしまう。だから議論を具体化していくために「保守」は一見するとリベラルの分野に思える政策にも関心を持つ積極的に提言していく必要がある。

 それは「寛容な保守」の具体化に他ならず大衆的支持の拡大も期待できる。要するに「保守」が受け身にならず積極姿勢でいることが日本型リベラル解体に最も必要なことである。

 日本型リベラルが解体されれば日本で左右両派によるイデオロギー闘争は終焉し自民党も存在意義を失い「都市派」「地方派」に分裂し政策論争もより実際的になり「天皇を戴く自由・民主主義国家」がただ存在するだけになる。