保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「弱者」を欲する日本型リベラル

 日本型リベラルが好んで行うことは社会を諸集団に分類することであり、分類するにあたって重視されるのは「加害者/被害者」「強者/弱者」「抑圧者/犠牲者」といった対立軸である。そして当然のように両者の対立・衝突を煽動する。

 日本型リベラルは「被害者」「弱者」「犠牲者」から成る関係団体を組織し、自らがその「顧問」とか「アドバイザー」になり、「加害者」「強者」「抑圧者」の勤務地前にデモなどを仕掛ける。デモの規模が大きくなれば大手マスコミも注目し、それが「加害者」「強者」「抑圧者」に対して更なる圧力となる。

 世間の注目が集まれば勤務地になんらかの電話も来るだろうし野次馬・好事家もくるかもしれない。言うまでもなく日本型リベラルはそれを意図している。

 もちろん民主主義社会でデモは認められているしそれが必要な場合があろう。しかし過剰なものは集団的威圧に過ぎず最悪、暴動に転化する恐れがある。もっとも日本型リベラルはそうなっても構わないと思っている節すらある。

 そもそも日本型リベラルが好む「被害者」「弱者」「犠牲者」という分類・評価は本当に妥当なのか。仮にそうだとしてもなぜ威圧の類を選択するのか。もっと平和的手段があるのではないか。

 最近、LGBTを巡り自民党所属国会議員の杉田水脈氏の月刊誌の寄稿文の表現が強い非難を浴びた。確かにLGBT問題に関して杉田氏の知識不足・表現力不足はあったかもしれないが、自民党本部前に大規模デモをけしかけたり杉田氏個人を攻撃するような手法は明らかに異常である。

 日本型リベラルは2項対立を好み、また両者の和解をただし対立軸を消滅させることもない。むしろその対立軸を固定化させようとする。

 だから「被害者」「弱者」「抑圧者」はいつまでたっても自立せず永久に「被害者」「弱者」「抑圧者」のままでいる。

 この2項対立の中で日本型リベラルの立ち位置を確認しておこう。彼(女)はもちろん「被害者」「弱者」「抑圧者」の側にいるが当然、対等ではない。煽動者と被煽動者の関係は基本的に上下関係にあり、つまり日本型リベラルは2項対立を作り上げることで半ば超越者として振舞えるのである。守られる存在とは基本的に「下」に位置することに注意したい。

 日本型リベラルは「被害者」「弱者」「抑圧者」への補償を求めるのが常だが、現代社会における補償とは金銭によるものが一般的である。金銭を支払えばそれで補償は完了し日常に戻るのが普通だが日本型リベラルはそれで終わらせない。

 例えば啓発事業を名目にした講演会の開催、学校教科書への記述追加など日本型リベラルが仕掛けた運動は「事業化」され、日本型リベラルは自らがその運営者になる。

 こうした「事業化」には国民の税金が投入され「講演料」などの名目で日本型リベラルにもその一部が入る。そして2項対立の固定化が長引くことによりどういうわけか「被害者」「弱者」「犠牲者」の方が例えば雇用面で優位になるなど倒錯した現象が生じる。

 こうした日本型リベラルの行動が国境を越えて展開されたのが戦後補償問題である。

 従軍慰安婦問題などはその最高の例で彼(女)らは海外で「大日本帝国の被害者」をわざわざ探しだし「戦後補償は終わっていない」とか「戦争責任」を殊更、強調して日本政府への謝罪と賠償を求めた。

 従軍慰安婦問題のように民間レベルでの補償の枠組みが成立したにもかかわらずそれを利用せず「真の補償が必要だ」などと叫び問題を複雑化させる。そしてどういうわけか運動の途中に「護憲」や「昭和天皇の戦争責任」を訴えたりする。

 日本型リベラルにとって日本国憲法下の日本であってもそれは「大日本帝国の後継国家」であり、その文脈で我々日本人は犯罪者予備軍扱いになる。

 日本型リベラルは「被害者」「弱者」「抑圧者」を救済する存在ではなく、彼(女)らを自らの存在証明・立身出世の道具として消費するだけの存在である。

 昔は「被害者」「弱者」「抑圧者」がリベラルを欲していると言われていたがもはやその関係は逆になっている。

 自らの存在証明・立身出世のために「被害者」「弱者」「抑圧者」を消費し社会の対立・衝突・分断を進める日本型リベラルの存在は有害でしかない。そして従軍慰安婦問題のように国際問題まで引き起こしているから日本の安全保障にすら害を与えているのである。日本型リベラルの解体は急務と言える。