保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「反社インテリ」としての日本型リベラル

 日本型リベラルの特徴は「リベラルな社会」を建設することではなく「リベラルの敵」を攻撃することであり、そこから「責任と現実の積極的無視」という性格が確認できる。

 実際、日本型リベラルに対する批判はその内容よりも振る舞いの方が大きいのではないだろうか。彼(女)らの攻撃的言動、姿勢には驚かされることが多い。

 そして攻撃的振る舞いをしても彼(女)らの生息地は既得権益だからそれをたしなめられることもないから増長する一方である。その増長はもはや極限に達している。

 何よりも日本型リベラルの基本的立ち位置は「在野」だから自らの発言に責任を持つこともない。一般に「説明責任」とは責任ある立場にある者に課されるものである。

 戦後、ほとんど期間において日本型リベラルは「在野」にあり「責任と現実の積極的無視」をしていたから他人を説得する能力が育たなかった。ここが重要である。

 雑駁に言えば日本型リベラルの最大の問題点は「他人を説得する能力の欠如」だろう。

 他人を説得するにあたって求められるのは「知識」だけではなく「態度」も極めて重要である。居丈高の態度をとった瞬間、他人は説得を受け入れてない。説得はあくまで相手に合わせて行うものである。こう考えると他人を説得するにあたって最も必要なものは知識ではなく忍耐である。説得の進行も直ちに「解決」に向かうものではない。    

「三歩進んで二歩下がる」の繰り返しである。それでも「解決」に向かうのだから問題はないが、日本型リベラルは説得が成立がしないためいつまでもたっても「解決」に向けて半歩も進まない。永遠に現状維持である。

 このことからリベラルに求められることは「進歩的知識」ではなく「忍耐」と言えよう。知識を振りかざして他人を攻撃するなどリベラルでもなんでもない。

 しかし、人間とは案外、自分が聞いたことがない言葉、特に「難解な言葉」を聞くとその発言者が立派な人間と思ってしまうものだ。これは高齢者に多いように思われる。

 ジャーナリスト、大学教授にはリベラルを自称する者が多い。彼(女)らは基本的に高学歴であり、世間一般の理解では「有能」に分類される。

 控えめに言って日本型リベラルは知識が豊富であり頭の回転も速い。反面、説得能力・伝達能力がないためその知識は他人に伝わらない。日本型リベラルの視点で見れば「どうして相手は理解できないのか」といったところだろう。

 そしてこの視点から他人を侮蔑する感情や被害者意識も醸成される。また「有能な自分の意見が採用されない日本社会」を日本型リベラルが肯定的に評価することはない。

 こういう勢力が社会において少数派になることはある意味、当然であるし、少数派をやや大胆に言い換えれば「社会に参加できない勢力」とも表現することもできる。何故なら社会とは多数派によって建設されるものだからだ。だから日本型リベラルとは「社会に参加できない勢力」と言える。

 普通、社会に参加できなければ人間、苦悩するものだが、日本型リベラルは悩まない。既に指摘したように彼(女)らの生息地は既得権益であり、社会に参加しなくても生活に困らない。むしろエリート意識をこじらせて意識面では社会を超越している。彼(女)らにとって「日本」とは指導・鞭撻の対象に過ぎない。立ち位置は「日本」より上に居る。そして説得能力の欠如ゆえ日本社会から反発を受け、彼(女)らは反社会的(反日)になる。だから日本型リベラルは「反社会的インテリ」と表現できよう。

 彼(女)らは批判すべき対象であるが決して侮蔑して終わらせて良い存在ではない。過小評価は禁物である。

 ではこの「反社インテリ」たる日本型リベラルをせめて「健全なインテリ」に「転向」させることはできないだろうか。優等生的回答で言えば彼(女)らに責任ある立場に就かせることが最も効果的手法である。

 しかし、それもなかなか難しいような気がする。だから「健全なインテリ」への「転向」はあきらめて思い切って憲法改正の機運を高めて9条2項を削除する、日本国憲法聖典化している日本型リベラルは9条2項が削除されればたちどころ消滅する。

 だから世論に改憲を訴えるにあたって併せて日本型リベラルについても触れる必要がある。今後、改憲に向けて様々な情報が発信がされるが、その内容を今一度検証してみるべきだろう。