保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「権力を縛る」とはなんなのか?~立憲主義考~

 「立憲主義を取り戻す」がリベラル・護憲派の中で依然、強い言説を持っているが筆者はこれに反対する立場である。

 リベラル・護憲派が主張する「立憲主義」に基づき制限される「権力」には「国民の代表者」という性質は含まれていない。

 最近、立憲民主党所属の山尾しおり氏は「立憲的改憲」なる本を出版した。山尾氏は「権力を縛る」という趣旨に基づき改憲(立憲的改憲)を主張している。

 具体的には憲法裁判所の設置と集団的自衛権の禁止である。

 前者は「専門家集団」であり民主的基盤が乏しい。一応、山尾氏が人事において国会関与の必要性を検討しているが、それも断言しているわけではない。

 本書において山尾氏は安倍内閣集団的自衛権限定解除に向けて内閣法制局の人事に関与したことを強く非難している。「不文律」に触れたことを殊更、強調し批判しているが「不文律」に強いこだわりのある人物が憲法裁判所人事の国会関与に積極的になるとはとても思えない。むしろ「法の専門家」の立場を殊更、強調して国会関与の形骸化を図るのではないか。

 要するに山尾氏が憲法裁判所への人事面での国会関与を検討しているのはあくまでポーズである。山尾氏は「政治家」というより「法の専門家」という意識の方が強い。

 そもそも内閣法制局の人事に内閣総理大臣が関与することがなんの問題があるのだろうか。内閣総理大臣は国会議員がしかなれずその国会議員は民主的選挙を経て誕生した「国民の代表者」という性質を持つ。

 立憲民主党は「権力を縛る」ということを殊更、強調するが彼(女)らの言う「権力」とは具体的になんなのだろう。

 日本国憲法に基づく「権力」とは民主的選挙を得て選出された「国民の代表者」から成るものである。日本国憲法は前文において議会制民主主義の採用を明言している。

 もちろん実際は政治家(=国民の代表者)だけで政治を行うのは不可能だから政治家を補佐するために官僚がいる。だから現在の「権力」とは「国民の代表者+官僚」と言える。

 「国民の代表者」だから批判してはならないということはもちろんない。

 批判は自由だが、批判する以上は根拠を示すべきであり、例えば森友・加計学園騒動のときに見られた「忖度していないこと証明しろ」などと言った言説は「批判」に該当しない。ただの難癖である。また、最低限のマナーも求められよう。要するに品格のある態度である。「品性」と「知性」は「車の両輪」の関係と言われるが「批判」に「品性」を求めた場合、東京新聞所属の望月衣塑子氏は「批判」の条件を達成することができるだろうか。

 論を戻そう。

 現在の「権力」を語るうえで最も重要なのはやはり「官僚」であって彼(女)ら法案作成と予算編成のプロフェッショナルであり、ある意味、政治家より権力がある。

 ところが巷のマスコミなどを見ると例えば天下り斡旋問題で辞任した前文部科学省事務次官の前川喜平氏を肯定的に評価するなど驚くほど倒錯している。朝日新聞などのマスコミ関係者は「自分は官僚と同じエリートだ」とでも思っているのだろうか。

 前記したように日本国憲法では議会制民主主義の採用を宣言しているにもかかわらず、どういうわけかリベラル・護憲派は議会制民主主義の活発化ではなくデモなどの社会運動を活用した直接民主主義の活発化に熱心である。そしてこの文脈から「抵抗」とか「対決」の必要性が強調、積極的に肯定され「異論の傾聴」や「合意形成」が等閑視される。

 戦後においてリベラル・護憲派直接民主主義の活発に熱心だった理由は彼(女)らが国政選挙では勝利できないという「現実」と「敗戦」の反動からくる過剰な「国家への嫌悪」そして「革命」を訴えるマルクス主義の流行が融合した結果であった。

 このことは「在野勢力」に留まったリベラル・護憲派の自己正当化の論理と言って良いだろう。

 また昭和の時代までは戦争体験者がリベラル・護憲派の中枢を占め、それが彼(女)らの主張に説得力を与えた。

 この国家への「抵抗」とか「対決」への異例な傾倒が社会運動の過激化を推進したのは間違いない。学生運動はその最たるものであり、社会運動に過激分子が流入することで一般市民は社会運動への参加を忌避するようになった。「抵抗」とか「対決」は暴力の行使を匂わせるものであり、一般市民の感覚からすればとてもつきあいきれないもである。

 この「闘争至上主義」とも言える運動の結果、社会運動の参加者は低調になり、また数的減少は社会運動の排他性を加速させ、社会運動に参加するものは「プロ市民」と評されるまでになった。

 しかし東日本大震災に伴う福島原発事故の発生により再びデモが再評価されるようになった。また、近年ではヘイトスピーチ問題もありカウンターデモも活発化した。

 そして何よりも安保法制を巡る議論では国会前デモが活発に行われた。この国会前デモを活発化させた「立憲主義を守れ」がデモのスローガンとなり「立憲主義」はまさに国家への「抵抗」「対決」を正当化する理論として採用された。

 しかし「国民の代表者」が集う国会、政党本部を集団で威圧する姿はとても肯定できない。

 「抵抗」とか「対決」を主訴とするリベラルはまさに「生産性のない」ものであり、そしてこれらを肯定するジャーナリズム・知識人はこうした過激行動を背景に我々が選出した「国民の代表者」を威圧・統制することを企んでいるのかと疑わざるを得ない。 

 彼(女)らに「魅力的な政策を提示して政権与党になろう」とか「他人を説得して多数派を形成しよう」などいった殊勝な考えはない。

 責任が問われることを回避するために「在野勢力」の立場を維持したまま「立憲主義」の名の下、我々が選出した「国民の代表者」をスキャンダリズム、集団的威圧などを通じて攻撃し統制下に置く。

 生身の人間で例えれば首元の頸動脈を常に抑えながら「自由にしても良いよ」という姿勢である。

 もはや立憲主義」は「国民の代表者」への「抵抗」「対決」を正当化する理論に過ぎず日本国民の分断・衝突を煽る以上の意味しか持たない。

 そういう意味では「立憲主義」は守らなくて良い。

 リベラル・護憲派が「立憲主義」の名の下、主張する「権力を縛る」とは我々「国民の人権を縛る」と置き換えても良い。