保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「法律家共同体」による権力の簒奪

 現在、護憲派の間では「立憲主義を守る」が大流行である。安倍内閣による集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈変更の閣議決定以来、「立憲主義」は知識層ではもちろん一般層にも広がったように見える。

 護憲派によると「立憲主義」とは「権力を縛る」ことであり、この文脈から集団的自衛権の行使は憲法上認められないとのことである。更に言えば最近の安倍内閣の国会運営もまた立憲主義に反するらしい。

 筆者は偶然、この「立憲主義」を説明する簡単な4コマ漫画をネット上で見た。

 それには「縛られる権力者」の例示として中世ヨーロッパの国王が示されていた。

 どうせなら日本史上の権力者を示すべきではないかと思ったがそれはともかくとしてこの漫画の表現には違和感が残った。

 中世ヨーロッパの国王は超然とした権力者でありまた世襲である。これを「縛る」という名目で「立憲主義」が論じられることは問題はない。しかし現在の日本でこの4コマ漫画で示された権力者に該当する存在はいるのだろうか。

 天皇は中世ヨーロッパの国王と同様、世襲制であるが歴史的にも権力者とは言えない。    

 現憲法下では天皇は「象徴」であり権力の行使は完全に封じられているし「天皇親政」を期待する声も全く聞かない。探したらあるのかもしれないが今後、主流になるとはとても思えない。

 安倍首相は世襲議員であるが世襲権力ではない。国政選挙を経て国会議員になり憲法上の手続きを経て内閣総理大臣になったのである。

 確かに世襲議員であるから市民感覚があるとは思えないがそうだとしてもやはり選挙を経て国会議員なり、また憲法の手続きに基づいて内閣総理大臣になったのである。

 ここで重要な視点は現在の日本の「権力」とは民主主義に基づき確立されたものでありその本質は「国民の代表者」である。決して中世ヨーロッパの国王と同じではない。

 ところが巷の「立憲主義」論を見る限りこの点が完全に抜け落ちている。

 例えば国際政治学者の篠田悦朗氏は「国民主権論の名のもとに、ひたすらに政府を制限しなければならないことだけを唱える日本の憲法学における「立憲主義」は、日本国憲法が前文で謳っているような「立憲主義」とは異なる」と現在の立憲主義論を明確に批判している。

 「立憲主義」なる言葉が殊更、強調されて「権力を縛る」ことが追求されて国家に期待された役割、特に国民の人権と生命の守る安全保障機能が発揮されないのならばそれは本末転倒に他ならない。

 世界史において人権論が興盛したのは18世紀後半からだが、人権論の興盛と同時に国家機能は整備されて行った。特に「近代警察」と呼べるものは人権論とともに発展したと言っても良い。

 「近代警察」成立するまでは治安維持は国家の仕事ではなく民衆の自立救済によって図られた。自立救済とは要するに当事者同士による解決であり、それは当然、流血の自体を招いた。人権救済は当事者間で行うよりも中立的な政府(警察)に委ねた方がはるかに平和的である。一方で国家に人権救済機能を委託するということはそれは言い換えれば国家に軍隊、警察と言った暴力装置の独占を許すことである。

 近代以降の国家とはもれなく「暴力装置」である。「国家は暴力装置」という表現は否定的に評されることが多い。確かに「暴力」はともすれば「支配力」に転化する要素がある。この文脈で「権力を縛る」という論は一定の説得力がある。

 しかしその「縛り方」は「国民の代表者に統制させる」ことを基本とすべきである。 

 要するに民主選挙を経た政治家に軍隊、警察を統制させるべきであり、またそれでほとんど足りる。そして現在の日本はそれを満たしている。軍隊、警察などはどうしても「秘密」を抱える必要があり、そうした組織は「組織外」からではなく責任ある政治家が「組織内」から統制せざるを得ない。

 こうした「国民の代表者による権力の統制」は「権力を内から統制する」と表現できるだろう。

 一方で護憲派は「権力を外から統制する」ことに著しい関心を寄せている。具体的にはデモなどの社会運動、国会における「抵抗野党」の積極的肯定である。

 そしてこの「権力を外から統制する」の文脈で発展したのが現在の立憲主義論である。

 国家を「悪魔化」し国家と国民の対立関係を異常なほど強調し、国家を立憲主義の名の下「縛る」ことを主張する。

 護憲派の視界に我々が選出した「国民の代表者」の姿はない。安倍首相を支持する世論、自民党に投票した国民など護憲派の中では「国民」ではないのだ。

 そして「悪魔」である国家を「縛る」主体はどういうわけか憲法学者、大学教授、ジャーナリスト、活動家の類なのだ。当然、彼・彼女らに民主的基盤はない。

 最近、立憲民主党の山尾しおり氏が「立憲的改憲論」という憲法に関する著作を発表した。同著によると「立憲主義」を守るために彼女は憲法裁判所の設置を訴えている。

 確かに憲法裁判所は採用している国はあるがこれらの国々の多くは大統領制を導入しており、要は憲法裁判所は行政権の権力が極端に強い国々で採用されているものである。

 確かにドイツのように首相権力が強い国でも設置されているがドイツは第二次世界大戦の敗北により国土が焦土と化し法秩序が完全に崩壊したため、それをゼロベースから組み立て直すために設置されたに過ぎない。

 現在「安倍一強」が指摘されているが例えば安倍首相がフランス大統領や韓国大統領ほどの権力があるとはとても思えない。そもそも「安倍一強」なる表現は批判を目的とした単なる「レッテル貼り」に過ぎない。

 また同著で山尾氏は国会の各種委員会の委員長に民間の有識者をあてることも提案している。

 このように立憲主義を守る」「権力を縛る」の文脈で具体的に提案されていることは非民主勢力の国政関与である。言うまでもなく国民主権の侵害である。

 護憲派は「立憲主義」を名目に非民主勢力の国政関与を肯定している。そしてこの非民主勢力の頂点に立つのは間違いなく憲法学者である。

 かつて憲法法学者の長谷部恭男氏は法律家のサークルを「法律家共同体」を表現した。

 「立憲主義」論の終着点は「法律家共同体」が三権を超越した形で日本を統治することである。そういう意味では巷で流行る立憲主義」論は「法律家共同体」による権力の簒奪、国民主権の無力化を図る政治運動と評して良いだろう。

 「立憲主義」を最も踏みにじっているのは安倍首相ではなく護憲派である。