保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

憲法を国民から奪う護憲派

 日本には護憲派と呼ばれる勢力が存在し、彼らは憲法9条を核として憲法改正に絶対反対の立場を採る。

 もっとも護憲派のほとんど全部は憲法第1章の天皇条項に反対であり、そういう意味では真の意味での護憲派ではない。

 天皇条項削除の改憲は国民の支持が得られる可能性は低く、また改憲論を提起すること自体、憲法9条の改正にまで波及する恐れがあるから護憲派天皇条項について触れることはほとんどない。

 このことから護憲派はまさに政治勢力であり、そして日本国憲法護憲派の仮面を被る政治勢力に守られている実に寂しい存在である。

 政治勢力たる護憲派の理解では戦後日本の平和は「9条の平和」であり、憲法9条を改正することは日本を戦争に巻き込むものというものである。また日本の平和が動揺した場合、それは日本政府が憲法9条を守っていないからだとする。

 護憲派日本国憲法聖典化しており、一言一句の変更すら認めない。

 護憲派から言わせれば日本国憲法、特に憲法9条の平和主義は人類の理想が明記された尊いものであり、それを変更することは許されない。

 「憲法9条の平和主義は素晴らしい! だから日本国憲法は素晴らしい!」という具合である。

 しかしこの憲法理解もおかしい。憲法9条に平和主義が規定されたから平和主義が素晴らしいというわけではなく、平和主義が素晴らしいから憲法に規定されたに過ぎない。

 憲法はあくまで平和主義を達成するための手段を規定したものに過ぎない。だから憲法の規定が平和主義を達成できないならば、その規定つまり条文を変更すれば良いだけの話である。

 憲法9条2項の規定を素直に読めば日本は軍隊の設置を禁止している。つまり「非武装」が憲法から求められている。

 しかし現在の国際情勢で「非武装」の選択は自殺行為である。「非武装」はあくまで全世界で実現することが確実視されたときに選択すれば良い。

 日本自らが率先して行う必要はない。日本が率先して「非武装」を選択したところでそれは単なる軍事的空白地帯が誕生するだけであり、周辺国は自らの軍事戦略に基づいて日本を占領するだけだろう。日本先行型の「非武装」は対日侵略を招くだけである。

 思考を巡らせれば「非武装」という憲法9条の理想を実現するために一時的に憲法9条2項を削除するという選択もあるはずである。軍事国家を武装解除するためにも一定の武装が必要である。

 まずもって憲法9条2項を削除し軍隊を設置し、実施主体は想像しにくいが全ての国の武装が解除されることが見込めるときに改めて憲法9条2項の規定を復活させれば良い。

 9条の理想のために9条を改正するのである。

 しかし護憲派にこのような考えはない。彼らはあくまで憲法聖典化している。

 憲法に規定されたことが実現するのが国民の使命だと考えている。

 憲法聖典化した場合、何が起こるのか。

 それは「憲法の解釈者」つまり憲法学者の影響力が絶大なものとなるだろう。憲法学者が中世ヨーロッパの聖職者のような存在になるだろう。

 大胆なことを言えば憲法学者が「神」になるのである。

 現在でも護憲派憲法学者の意見をまるで「神託」のごとく捉えているところがある。「立憲主義」という言葉が政治にまで影響を与えるようになったのも憲法学者がこの言葉を積極的に使用したからである。

 要するに護憲派日本国憲法を任せたら、護憲運動を徹底させたら憲法学者を頂点とする社会が誕生し間違いなく国民主権は形骸化するだろう。護憲派憲法を国民から奪おうとしている。

 実際、「立憲主義」なる言葉を梃に憲法学者の政治的影響力を増大している。そこに国民の姿はない。

 国民の手に「憲法を取り戻す」ためにも憲法改正が必要であり、それは9条2項削除が最も望ましいが、憲法聖典化を否定するだけという意味ならば憲法改正という政治的事実だけで足り、昨年、安倍首相が提案した「自衛隊の設置」を明文化する憲法9条3項追加案で十分だろう。

 だから筆者は憲法9条3項追加案を支持したい。