保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「卑屈な日本人」を求める人々

 日本型リベラルは例外なく護憲派だが、彼(女)らの憲法解釈論を読む限り、その目標は日本国憲法を守るというよりも、その運用を通じて日本から「日本的要素」を可能な限り排除することである。

 だから国旗、国歌など「日本」「日本人」を意識させる物は徹底的に否定する「伝統」「国民国家」ももちろん否定の対象である。

 最近ではバラエティ番組で日本を肯定する表現(日本スゴイ)に対しても批判している。「日本スゴイ」批判論はあまりにもくだらないので批判する気も起きない(それでも今度挑戦してみたい)

 もちろん日本国憲法には天皇条項があり、これはまさに「日本」を意識させる条項に外ならず、当然、日本型リベラルはその廃止(削除)を望んでいるが、政治的反響が大きいので徹底的に無視する戦術を採っている。

 日本型リベラルが排除しようとしている「日本的要素」は単なる制度に留まらず歴史・伝統・意識面までに及んでおり、このことから彼(女)らが排除しようとしている「日本的要素」とは「歴史的共同体として日本」と表現することもできよう。

 もっとも日本型リベラルは日本から可能な限り「日本的要素」を排除しようと努めるが完全には排除しようとはしない。

 日本型リベラルは伝統を否定し国民国家からの離脱をうたい「世界市民」を目指すコスモポリタンではない。もちろん国家・国籍を意識せず国際社会を渡り歩くグローバル・エリートでもない。

 日本型リベラルは明らかに「日本」「日本人」の存在を容認している。何故なら「日本」「日本人」の概念が消滅してしまえば中国・韓国・北朝鮮に謝罪する主体が消滅してしまうからである。これは日本型リベラルにとってとても容認できるものではない。

 日本型リベラルは「日本」「日本人」といったナショナルものを批判するけれど、その存在の完全な否定、離脱をただすわけではなく、実のところ彼(女)らは日本人の中で最も「日本」「日本人」を意識している存在である。

 ナショナルなものへのこだわりはおそらく「保守」以上ではないか。そのこだわる部分が異様なだけであり、やや大胆な表現を使えば日本型リベラルとは「日本人差別」を志向する勢力である。

 だから日本型リベラルが理想とする「日本人」とは中国・韓国・北朝鮮に謝罪し同調し迎合し「経済援助」「経済協力」の名の下、これらの国々に我々日本人の税金を献上する「日本人」である。

 更に政治家はもちろん天皇陛下は8月15日を基軸に中国・韓国・北朝鮮に出向き、謝罪、土下座するのが望ましいと思っている。

 仮に天皇陛下内閣総理大臣がこれらの国々に土下座すれば侮蔑、罵倒、嘲笑に対象となり、それを通じて我々日本人も侮蔑、罵倒、嘲笑の対象となるだろう。そして我々日本人は日本国内にいるにもかかわらず在日コリアン・在日中国人に遠慮しなくてはならなくなる。

 要するに日本型リベラルが理想とする「日本人」とは「卑屈な日本人」であり、それは中国、韓国、北朝鮮の人間の顔色を常に伺い驚くほど卑屈で低姿勢で名誉も尊厳も自ら放棄した人間である。

 そしてそれはこれらの国々の人達に「日本人だからかまわない」「日本人だから、まあいいや」といった「日本人差別」の思想を育ませる。

 卑屈な人間は軽んじられるのが常であり、もしこれが国家レベルで行われれば我々日本人の命も保障されない。

 奇妙なのは戦争体験者を除いて日本型リベラルは特段、「日本」「日本人」であることを理由に迫害されたという事実も聞かないのだ。日本国内なら迫害されることはあり得ないだろう。

 確かに今の日本はブラック企業問題などがあり社会を理不尽と思うことは少なくない。

 しかし例えばブラック企業関係でトラブルが起きればまず関心を持つのはそのブラック企業自体であるし、そこから派生して労働法制などに関心を持つかもしれないが日本全体を呪詛するというのはやはり著しい飛躍である。

 常識的に考えれば社会に参加し辛辣な経験をしたならばその社会を良い方向に改革していきたいと思うものではないか。「リベラル」を自称するならば「自分と同じ経験をさせたくない」という視点を持ち日本を呪詛することなく社会改革を主張するはずである。

 だから少し大胆なことを言えば日本型リベラルとは就職などを通じて社会に参加し、その経験・反動で形成されたものではなく実社会とは接点が著しく少ない存在ではないか。 

 マスコミ・大学は保護産業であり、競争原理は機能しないし、むしろそれを当然だと思っている節がある。競争原理が機能しない職業と言えば公務員が話題に上ることが多いが公務員はその批判を受けて議会を始めとした外部審査が行われている。

 しかしマスコミ・大学はどうだろうか。「報道の自由」「学問の自由」を掲げ優遇措置を当然視、自らを一段高みに置いて社会から超越した存在という意識があるのではないか。

 そして社会との接点が少ないから他人を説得する能力が身につかない。説得に失敗すれば相手の理解力・能力不足を批判しむしろ自分はその被害者だという意識すら持つ。

 この環境・意識から「反社会インテリ」が誕生するのである。また「インテリ」に該当しない日本型リベラルも奇妙な者が非常に多い。

 最近、左翼・リベラル系デモの人員構成を見てもやはり高齢者が主体でたまに注目される中年・若者は奇人・変人・不良分子ばかりである。

 もちろんこれらの存在はその振る舞いから元々注目されやすいがそれを差し引いてもやはり目立つ。

 年金生活者たる高齢者はとても社会参加していると言えないし(むしろ社会から支援されている存在)奇人・変人・不良分子は社会からの脱力組である。控えめに言って後者は長期不況の被害者かもしれないがつきあう必要はない。つきあっても時間とエネルギーの浪費である。

 論を整理すれば日本型リベラルは「反社会インテリ」「奇人」「変人」「不良分子」から成る勢力である。要するに我々、市民社会の「外」にいる勢力である。その中核は言うまでもなく反社会インテリである。

 彼(女)らは社会を憎悪し、そこから発展して日本を憎悪し「反日」活動に勤しむ。 

 そしてその活動を正当化するのが日本国憲法である。だから憲法9条2項が削除されれば日本型リベラルは消滅するだろう。

 こう考えると日本型リベラルとは実に脱力感を誘う勢力である。しかしこうした勢力は説得困難なため案外、てごわい。だから自らの安全を絶対的に確保(匿名の徹底等)したうえで情報収集に努め、その実態をネットでの暴露を通じて解体していくほかない。個人レベルの活動ではこれが限界だろう。しかし積み重ねれば大きな「力」になり、いずれ解体できると筆者は信じている。

 

日本はアメリカから逃れることはできない

 日本の歴史の大部分において「外国」と言えば観念において中国、朝鮮、インドであったが、実際に日本に影響を与えたのはやはり中国、朝鮮である。

 中国の歴代王朝は基本的に海洋には進出せず大陸の経済活動には満足し、また安全保障の関心は常に北方の遊牧民族だった。

 時々、遊牧民族対策が失敗し中国が遊牧民に征服され「遊牧国家」が成立してしまうが、元帝国が同族のモンゴル・ハン国、清帝国中央アジアジュンガルに警戒したように遊牧国家の安全保障の関心もまた同じ遊牧民だった。だから元帝国による日本攻撃(蒙古襲来)は中国史において例外だったのである。

 朝鮮もまた海洋に進出しなかった。高麗・李氏朝鮮は中国王朝の圧倒的な影響下にあり、それで満足していた。朝鮮半島の歴史を見ると例えば高麗・李氏朝鮮は「一国の歴史」というよりも「中国の一地方の歴史」と見た方が理解しやすい。それほど朝鮮半島は中国王朝の影響下にあったのである。

 中国王朝は常に経済超大国だったが、軍事力では遊牧民に圧迫されるなど守勢が目立った。そこで中国王朝は他国を武力で征服するのではない独特の外交関係を周辺国と築いた。具体的には中国皇帝が周辺国の長を「王」に封じ、臣下とした。例えば歴代朝鮮王朝は中国皇帝から「王」と封じられて初めて「王」を名乗れた。

 節目ごとに臣下たる「王」の使者は中国皇帝に贈答品を持って挨拶に行くわけだが、その返礼として莫大な財物が交付された。

 また挨拶に向かう道中では商業活動も認められ「王」達は莫大な利益を得られた。

 この中国皇帝を中心とする独特の外交関係、いわゆる「冊封関係」であり日本も室町時代足利義満が実利目的で受け入れていたことはよく知られる。

 「冊封関係」は表現こそ厳めしいがその関係は「緩やか」であり、その内実は今日で言うところの「ソフトパワー」に基づく関係だった。支配―被支配関係は形式的儀礼的だった。

 しかし大航海時代を契機、ヨーロッパ諸国が東アジアに出現し日本も交流を持った。  

 大航海時代とは要するにヨーロッパの世界進出であり、また物流が陸上輸送から海上輸送に切り替わる最初の一歩でもあった。

 ヨーロッパ諸国の世界進出により日本は欧州を知りまたアメリカ大陸を知った。一方でヨーロッパ諸国との交流により日本はキリスト教を知り、その対策として「鎖国」を選択した。鎖国は単なる宗教政策ではなくヨーロッパ諸国を念頭に置いた安全保障政策という指摘もある。

 また一口に「鎖国」と言っても中国(清王朝)朝鮮(李氏朝鮮)とは長崎港を通じて限定的に交流を続けていた。だから鎖国下の日本は「冊封体制の周辺者」であり、その関係「冊封体制」の参加するのと同様、緩やかなものだった。

 過去の東アジアは「緩やかな関係」で成立していたのである。

 幸いなことに16~18世紀前半の海洋軍事技術ではヨーロッパ諸国は日本の脅威とは成らず鎖国は成立できた。もちろんヨーロッパ諸国相互の対立も影響した。

 鎖国により日本が対外戦争に巻き込まれることはなくなったが一方で軍事技術は停滞した。

 そして18世紀末からユーラシア大陸からロシア帝国が東アジアに進出し日本に圧力をかけ、そして1853年にペリー率いるアメリカ艦隊の侵入を許してしまい開国せざるを得なかった。

 太平洋方面からの軍事的脅威はペリー来航が初めてであり、これはまたアメリカがアジアに参入してきたことを意味した。ペリー来航を機とした「開国」により日本が意識する「外国」は急速に増え、またどの国も圧倒的な軍事力を持っていた。特に日本周辺に参入したロシア、アメリカは巨大だった。

 このような悪条件にもかかわらず日本は明治維新を実現し富国強兵も断行し近代国家・国民国家を確立できた。それはもはやアジアで「緩やか関係」で満足することが不可能であることも意味した。

 そして清国、ロシアと言ったユーラシア大陸の大国に戦争で勝利こそしたが1910年の朝鮮併合を機に大陸・海洋双方に進出する国家となった。

 要するに日露戦争後の日本は国家戦略が統一できなかったのである。とりわけ「大陸進出」は日本の外交の自由度を拘束した。国家戦略の不統の一まま陸軍が日本全体を牽引する形で大陸進出を推進した。しかし朝鮮経営は赤字で満州経営もまた膨大なコストを強いられた。

 大陸投資とそれを守るための闘いの犠牲が巨大だったため、そこからの撤退することが考えられず、最終的にアメリカと闘い大敗北を喫した。海外の権益を守ろうとして日本本土が焦土と化したのである。日本は「アメリカという参入者」に国を開けられ、また国土も焦土とされたのである。

 現在、アメリカは自らを「太平洋国家」と宣言しており、日本がいかなる姿勢を取ろうとも日本はアメリカのアジア戦略に巻き込まれる。

 日本はアメリカを拒むことができない。避けることも逃げることも無視することもできない。対米関係はまさに日本の繁栄と平和に直結するテーマである。またアメリカのアジア関与は決して日本にとって不利益ではなくむしろ利益あるものであり、戦後の日米同盟がそれを証明した。 

 アメリカは国として若く、またアジア関与の歴史は更に若い。短期間にもかかわらず「日本に影響を与えた外国」という意味ではアメリカは圧倒的であり中国・韓国と比較にならない。

 我々はなんとなく「アジア」という言葉を使って「アメリカとの距離」を強調しがちだが、安全保障という国家次元はもちろん、消費文化という個人次元もまたアメリカに感化されている。

 「アメリカなきアジア」は幻想である。何よりも「アメリカなきアジア」は不安定要素が極めて高く日本の平和を損なうものである。 「アメリカなきアジア」を安定させたいならば、かつての「冊封体制とその周辺」のように国境を意識しない「緩やかな関係」が求められるが中国、韓国、ロシアは領土意識が極めて高く、また東アジア諸国限定で「緩やかな関係」を再構築したとしても結局、アメリカに切り崩されるだけだろう。

 アジアからアメリカを除外する必要はなく、またそれは不可能だからアメリカのアジア関与を前提とした政策を展開していくしかない。

 それは結局、日米同盟の維持・強化しかない。逆に言えば日米同盟を損なう対アジア関係は要注意である。

リベラルを包含する日本の「保守」

 戦後日本でイデオロギー闘争が低調になってどのくらいになるのかわからないが冷戦終結が一つの起点になっているのは間違いない。イデオロギー闘争は例えば経済や福祉の分野では主流にならないが憲法、安全保障の分野では依然、幅を利かせている。

 それは言うまでもなく「保守」「リベラル」という対立軸である。

 昨年の総選挙では立憲民主党が自らを「保守」と位置付け話題を集めた。

 「保守」「リベラル」の分類は政治の世界では積極的に行われている。もっとも政治は党派抗争という性質を持つからある意味、当然である。

 リベラルについては筆者は既に記した。そこで本稿では「保守」について論じたい。

 日本の「保守」の最大の特徴は原理的思想がないことである。「保守」の立場で皇室を否定するものはいないが、一方で皇室は思想ではない。海外の「保守」とは雑駁に言えば宗教であり欧米ならばキリスト教である。キリスト教的価値観への姿勢が「保守」「リベラル」を決めている。そして宗教である以上、聖典が存在する。これが決定的に重要である。

 聖典がある、もっと言えば文書化されたテキストがあるという事実は運動に活力を与える。守るべき文章の存在は「ここにこう書いている」「ここには書いていない」といった具合で実にわかりやすい。しかし日本の「保守」には聖典とかテキストといったものはない。皇室と深い関係にある宗教は神道だがこれも聖典、経典と呼べるものがない。だから日本の保守はある意味「緩い」とも言える。

 もともと日本は「無思想こそ思想」と呼ばれる風土であり、強固な思想は確立しなかった。周辺に原理的思想があっても日本は島国だからその流入も限定的で容易に日本化する。そのため歴史的に見ても日本の政治機構は強力な中央集権ではなく連合を基礎とし、例えば天皇は権力が無力化され終には祭祀的儀礼的存在となった。武家政権徳川幕府成立までは中央政権は決して強力とは言えず、強力だった徳川幕府も「藩」の存在を認める分権的政治体制であった。

 日本は政治も宗教も総じて「緩く」また「融通無碍」だった。このように融通無碍が容認される風土では「保守」もまた融通無碍である。融通無碍的保守は「強さ」「活力」を感じられず否定的評価されることが多い。

 しかし筆者は日本の「保守」は融通無碍であるからこそ一方で自由・平等・寛容といった欧米発のリベラルな思想を吸収できたと考える。皇室の存在さえ否定しなければ保守はリベラルの価値観を決して否定しない。だから日本の「保守」はリベラルを包含しており、やや大胆な表現を使えばリベラルの土着化が日本の「保守」と言い方もできる。

 このようにリベラルを包含した「保守」は「寛容な保守」という表現が最も適切である。  

 これは昨年、誕生した希望の党が打ち出したスローガンであるが、同党は初心に帰ってこれを考究してみてはどうか。

 論を戻すが日本の「保守」は融通無碍でリベラルを包含しており、このことは日本型リベラルの存在意義を奪った。更に日本型リベラルの特徴である「責任と現実の積極的無視」そしてその裏返しとしての「保守」の政権担当能力の充実が日本型リベラルの先鋭化を進め大衆的支持を失わせた。「保守」がリベラルを包含し、政権与党を担当し満点でこそないが基本的に社会が成立しているならば日本においてリベラルは不要という評価もできるし、率直に言って筆者はその立場である。

 今の日本型リベラルはもはやリベラルとは言えず、その実態は日本国憲法聖典化しリベラル用語を駆使し「弱者」に寄生し対立・衝突を煽り社会を分断させるだけの存在に過ぎない。

 彼(女)らとのやりとりはまさに不毛・浪費であり、政治レベルでは国会を空転させている。また外交レベルでは「敵の敵は味方」理論を採用し外国人活動家を日本に誘致したり、憲法9条を守りたいがために中国・北朝鮮の側に立ち「侵略の呼び水」という性格すら持つ。

 それでも「批判することに意義がある」と言った次元で日本型リベラルを正当化するものもいるかもしれない。「批判のための批判」が「容認」されるのは批判対象が巨大なものに限られる。戦後日本で言えば経済成長を続けていた日本自身とそれを実現させていた自民党である。

 しかしもはや日本は経済成長が著しい国とは言えないし、経済の長期停滞の結果、自民党も弱体化した。「安倍一強」は所詮、批判のためのレッテル貼りに過ぎない。自民党の基盤は昭和の時代に比べれば相当程度低下し高齢化も進んでいる。有力な支持基盤だった建設業界も公共事業の削減により弱体化した。今は無党派層が非・反リベラルの立場であり、その反動で支持を受けているに過ぎない。大体「批判のための批判」とは批判の根拠を示さないのだから説得不可能であり、単なる議事妨害である。常識で考えればわかるはずである。

 論を戻すならば保守がリベラルを包含している以上、もはや日本型リベラルは不要であり、積極的に解体していく必要がある。憲法9条2項が削除されれば日本型リベラルは完全に解体されるが、それが難しいのが現実である。しかし粘り強く改憲運動をしていく他ない。また「保守」「リベラル」といった議論はどうしても観念的になり大衆から遊離してしまう。だから議論を具体化していくために「保守」は一見するとリベラルの分野に思える政策にも関心を持つ積極的に提言していく必要がある。

 それは「寛容な保守」の具体化に他ならず大衆的支持の拡大も期待できる。要するに「保守」が受け身にならず積極姿勢でいることが日本型リベラル解体に最も必要なことである。

 日本型リベラルが解体されれば日本で左右両派によるイデオロギー闘争は終焉し自民党も存在意義を失い「都市派」「地方派」に分裂し政策論争もより実際的になり「天皇を戴く自由・民主主義国家」がただ存在するだけになる。

「臣民」という民主革命~教育勅語を通じて考える~

 安倍政権が内閣改造を行い新大臣たる柴山文部科学大臣が記者から教育勅語に関する質問を受けて「現代風に解釈され、あるいはアレンジした形で、道徳などに使うことができる分野というのは十分にある。普遍性をもっている部分がみてとれる」と発言しちょっとした話題になっている。反安倍勢力、日本型リベラルはまたぞろ「戦前回帰だ」とか批判している。そこで本稿では教育勅語について論じたい。

 教育勅語は戦後の進歩的知識人の中では極めて評判が悪かったのは論をまたない。内容に「普遍性」が確認できたとしてもその復活はもちろん国がそれに準ずるものを学校現場に持ち込むことに強く反対した。現在、「道徳」が科目化されているがそれへの反発の源流も教育勅語にあるのは間違いない。

  教育勅語の評判が悪いのは文中に「臣民」という言葉が入っているからだろう。「臣民」は大日本帝国批判の代表的用語であり「臣民」とは即ち「天皇の臣下」「天皇との主従関係」を想起させ、そこに自主性はなく「従属」を想起させる。しかしこれは多分に戦後的価値観、表現である。

 確かに「臣民」は主従関係を想起させるが一方でそれは政治参加を意味した。江戸時代までは政治に参加できるのは「君主」と「臣民(=臣下)」だけであり、大多数の民衆は政治の外にいた。

 雑駁に言えば江戸時代までの社会構造は「君主>臣民>民」から成っていた。だから教育勅語を制定した明治23年(1890年)時点で「民」を「臣民」と表現することは「民」の「臣民」への「格上げ」に他ならず極めて肯定的意味があった。

 戦後的価値観、表現に基づけば「民」と「臣民」の言葉を並べた場合、ほとんど全部の人が「臣民」という言葉を「下」に見るだろう。

 しかし封建時代の残滓がある社会では必ずしもそうではなかった。安易に「臣民」を否定せず「民」を「臣民」化する。既存の価値観、表現を否定せずそれを尊重したうえで改革を進めて行く明治政府のリアリズムが読み取れるのではないか。

 もし教育勅語大日本帝国憲法を通じて日本人が「臣民」化されていなければ戦前日本の民主運動は失敗に終わっただろう。今まで政治の外にいた「民」が唐突に権利獲得運動を起こしても単なる「一揆」と見なされて大衆的支持はもちろん知識人の支持も得られなかったに違いない。

 だから「民」を「臣民」と表現した教育勅語は「民」の政治参加を促進させた一種の「民主革命」である。要するに教育勅語は民主主義を促進させたのである。

  なによりも「天皇の臣下」たる「臣民」になったとしてもそもそも天皇は自ら政治を行う主体ではない。「天皇親政」は大日本帝国下でも予定していなかった。要するに君主は臣下に干渉しないのである。干渉してこない君主との間に実質的な意味での「従属」関係は成立するわけがない。

 また「臣民」は社会低地位によって区分されなかった。大学教授や医者も「臣民」であり、農民や労働者もまた「臣民」だった。もっと言えば大日本帝国では内閣総理大臣も名もなき民衆も等しく「臣民」だったのである。

 ここに「天皇の前では皆同じ」という平等思想が読み取れる。これは「一君万民」と呼ばれた。この「一君万民」の理念は戦前期において大きな力を発揮した。有名なのは昭和の青年将校運動だろう。彼らは時の内閣、宮中関係者を「君側の奸」即ち天皇と臣民の間に立つ「中間遮蔽物」とみなし実力行使で排除した。いわゆる2.26事件である。

 「君主に干渉されない臣民」「社会的地位で区分されない臣民」こう考えると「臣民」は案外、自主性がある。確実に言えることは大日本帝国下で「臣民」だった我々の先祖はかなりしたたかだったことである。

 柴山大臣の発言が今後、どのような影響を与えるのかわからない。しかし教育勅語が制定されたもはや100年以上たっている。その批判が開始された「戦後」も70年以上経過している。これを機に教育勅語全体はもちろん勅語に記されている「臣民」についても落ち着いた議論をしても良いのではないか。

同盟国を欺くことが「賢い」?

 集団的自衛権の限定行使を認めた、いわゆる「安保法制」が国会で可決されて3年、施行されて2年半あまりが経過した。

 反対派が主張したように安保法制可決後、これが起因となり日本が「戦争に巻き込まれた」という事案は発生していない。 

 むしろ北朝鮮情勢を巡り、同法に基づき自衛隊がいわゆる「米艦防護」を実施し抑止力を高めたほどであり、やはり集団的自衛権は日本の安全保障の向上に役立っている。

 集団的自衛権の限定解禁は日米同盟強化策の一環であることは明白であり、解禁に向けて米国側から働きかけがあったのは間違いなく、それも特段、隠されていない。

 集団的自衛権の限定解禁が行われるまで日米同盟は「片務的同盟」と表現された。もちろん現在でも日本有事を除けば自衛隊の対米支援は基本的に「後方支援」に限定されており、最前線で戦うことは予定していない。

 日米の戦力差は比較にならず「日本はアメリカに守られている」という構図であるから「片務的同盟」という性質は基本的には変わらない。しかしこれは装備や防衛予算の次元の話である。

 集団的自衛権が限定解禁されるまでは海上自衛隊護衛艦は近隣に展開する米海軍艦艇が攻撃された場合、「日本有事」を除きこれを支援することができなかった。米海軍は全世界に展開しており、その最中にいちいち「日本有事」という区分はしていないし、そういう区分自体、米海軍の機動力に制約をかけるものである。これは海軍の特性を考えれば容易に想像できるのではないか。

 しかし集団的自衛権の限定解禁により「日本有事」以外、前記したように地理的制約なしに日米は共同行動が出来るようになった。

 装備や防衛予算次元の「片務的同盟」はNATO・米韓同盟でも確認できるが法的次元のものは日本だけである。「同盟軍を守る」という本来ならば自明過ぎて問題にならないものまでが日米同盟では問題になっていた。そういう意味では集団的自衛権の限定解禁は日米同盟の「国際標準」化の一歩であるし、日本の「普通の国」化とも言える。今後、政治情勢を注視しながら全面解禁に向けての準備を進めるべきであろう。そしてそのために保守派は結集、理論武装を進めて行く必要がある。

 米国からの要請を受けての限定解禁だったことから「対米従属である」といった類の非難があった。しかし率直に言って米国の要請は常識的なものである。

 自国の憲法を根拠に反対しても米国の幻滅を招き、日米同盟の亀裂、最悪、解消になるだけである。もちろん「日米同盟無き安全保障」も考えられるが結局、それは自主防衛以外にあり得ない。

 限定解禁を巡り日米間で具体的にどのような交渉があったのかはもちろん知らないが

日本では同盟国たるアメリカの要請を上手く拒否する、もっと言えば欺くことが賢明であるかのような論調が目立つ。「憲法9条があるからアメリカの軍事協力を拒否できた」と言った類の言説もこの一部である。

 例えばアメリカが唐突に日本の防衛費を3倍にするよう要求してきたらそれは横暴だが同盟とは基本的に相互支援であり、その基礎は両国の「信頼」である。だから同盟国を欺くことが賢明といった論調はあり得ないものである。

 戦前の日英同盟もそうだったが日本ではどうも外国との同盟関係を「損得」の次元で論ずる風潮が強い。同盟国から可能な限り「得」を引き出すことこそが同盟関係だと言った具合である。

 確かに過去の日英同盟、現在の日米同盟ともに文化、人種が日本と大きく異なっており、要するに共通点より相違点を感じる国民が多い。だから「損得」の感情が優先するのはある程度はやむを得ない。しかし、やはり限度というものがある。幸い過去の日英同盟よりも現在の日米同盟は地理的にも国力的にも利害を共有しやすい。

 ソ連崩壊後、左翼はリベラルに衣替えしかつての自らが展開した日米同盟否定論を忘れ「ソ連が崩壊したから日米同盟は不要だ」と主張し、そこから派生し「日米同盟の維持のために北朝鮮・中国脅威論を煽っている」などと言う。

 確かに日米同盟はソ連を対象として締結し、そしてソ連崩壊後、もちろん非公然だが北朝鮮・中国を対象としている。もちろんソ連から北朝鮮・中国への対象の変遷は日米同盟の維持のためではない。もう少し巨視的にとらえたい。

 歴史的に見ても日本の安全を脅かしてきたのはユーラシア大陸の勢力であり、ユーラシア内部の大国間の競争がなくなり、その「力」が海洋に進出したときに日本と衝突する。唐帝国元帝国、ロシア帝国ソ連といった国々はいずれもユーラシア大陸の盟主的存在である。だから中国が台頭しロシアを圧倒しユーラシア大陸の盟主になろうとするならばそれに備えるのは当然である。中国に迎合し日米同盟を解消すれば中国が海軍力の増強を止めるとでも言うのだろうか。ますます増長するだけだろう。

 ユーラシア大陸の盟主が日本を軍事的影響下に置けばあとグアム、ハワイまで一瀉千里である。だから中国台頭を念頭に置いた日米同盟の強化は日本はもちろん、アメリカにとっても有益である。また日米同盟を考える際に「利害」に限らず日米両国ともに民主主義国家である点も重要である。

 日米同盟は単なる国家の領域を防衛するために限らず「民主主義」という価値観を守るという意味を持つ。アメリカが「民主主義」の価値観を極めて重視していることはよく知られる。ネオコンのように軍事力の行使を通じて「世界の民主化」を図ろうとした勢力もいるぐらいである。

 今のアメリカのそこまでの力はないが「民主主義圏を守る」程度のことは間違いなくするはずである。その場合、日本は独裁国家たる中国の最前線に位置するわけだが、これは冷戦の再現に過ぎない。実際のところ中国の台頭とは要するに独裁国家の台頭であり第二次世界大戦後の国際秩序をハード面(軍事力)のみならずソフト面(国際法)でも大きく変える可能性がある。独裁主義を肯定する思想はもはや存在せず中国共産党にとって最大の脅威は自由・平等・民主主義思想に他ならない。

 中長期的に見れば国際社会はアメリカを盟主とする「民主主義陣営」と中国を盟主とする「独裁国家陣営」に収斂されるだろう。当然、日本は前者に属すべきだしそのためにも日米同盟の強化、少なくとも「国際標準」化、「普通の国」化は推進しなくてはならない。

 今後、日本の「立ち位置」を問われる場面が多くなるだろう。「日本は米国と中国の架け橋になるべきだ」とか「日本の領土に外国の軍隊が駐留しているのはおかしい」いった優等生的言説は米中両国の不信を買うだけである。ところがこの種の優等生的言説は案外、世論の支持を受けるのである。もちろん日本型リベラルはそれを最大限利用するだろう。

 だからこれからの政治家は外交・安全保障政策への見識、説明能力が格段と問われる。「外交と安保は票にならない」では済まされない。外交・安全保障政策に見識のある政治家を選出するためにも例えば参議院議員の定数増員も積極的に検討されよう。参議院議員は唐突な選挙に振り回されることなく政策に集中できる存在である。

 安全保障は実験や冒険、博打の類は絶対にできない分野である。望ましいのは日本が自主防衛を確立してアジア・太平洋地域における米中間のキャスティングボードを握る存在になることであり、そのためにも防衛論議の活発化が望まれる。そしてそれを妨害しているのが日本国憲法聖典化している日本型リベラルに他ならない。

「戦後レジーム」からの「脱却」or「延長」か~安倍政権評~

 安倍首相は第一次政権の時に「戦後レジームからの脱却」を提唱した。「戦後レジーム」が具体的にどのようなものかは説明されていないが日本国憲法がその中核に含まれているのは間違いなく、「脱却」には当然、日本国憲法の改正が含まれている。

 また「戦後」という表現がある限り、日米同盟も含まれているだろう。「戦後レジーム」を論ずるにあたっては日本国憲法と日米同盟を除外する論者はいないはずである。

 第一次安倍政権では教育基本法改正や防衛庁の「省」への格上げが行われ、これは日本型リベラルの反発を買った。

 しかし、周知のとおり2007年の参議院選挙で自民党が大敗したことにより、第一次安倍政権は瓦解した。

 2012年に復活してからの安倍政権では「戦後レジームからの脱却」という言葉は使用されていない。恐らくこの言葉を使用すること自体、日本型リベラルを興奮させ無用な摩擦を生むという判断からだと思われる。

 しかし筆者は安倍政権を評価するにあたってこの「戦後レジーム」という言葉は注目に値するものだと考えている。

 実際、安倍政権下で制定された法律、代表的なものを挙げれば特定秘密保護法、安保法制、共謀罪などは昭和の時代ならばとても成立しなかったものである。日本型リベラルも同じ感想だろう。だからこそ彼(女)ら安倍政権を過剰なまでに攻撃するし、もっと言えば彼(女)らの感覚では「戦後レジーム」も完全ではないこそかなりの程度「脱却」されているはずである。

 では実際のところ「戦後レジーム」からの脱却を進んだろうか。前記したように「戦後レジーム」の中核は日本国憲法であるが、憲法改正にはいたっていない。

 日本国憲法は中核であるが、それだけで戦後レジームが成立しているわけではない。法次元で言えば憲法の理念を反映させた関係法もまた重要であり、特定秘密保護法、安保法制などはそれを改めるものであった。日本型リベラルの理解では憲法9条という「本丸」の改正に向けて「外堀」が着実に埋められているといったところだろうか。

 戦後日本において憲法の関心はやはり憲法9条であり、これが淵源となり自衛隊の実力・行動には制約がかけられた。一方でこの制約によるマイナスは日米同盟が補完していた。

 「専守防衛」「GDP比1%の防衛予算」は日米同盟があったからこそ成立したものであり、日本自ら積極的に「対米依存」を選択したと言える。

 このことから「9条の不利益」を「日米同盟の利益」が補完していたのが「戦後レジーム」とも言える。

 そして「中国台頭」に伴う国際情勢の著しい変化によりアメリカの軍事面における圧倒的優位は保障できなくなってきた。地政学的に見れば中国の台頭に最も影響を受けるのが日本である。だからアメリカが「中国台頭」を受けて防衛面で対日負担の増大を要求するのは筋が通っている。

 またその対日負担要求も秘密情報の保護や集団的自衛権の解除と言った防衛予算の増大を伴わないものである。この次元の対日要求は日本の安全保障政策の「国際標準」化もっと言えば「普通の国」化である。「普通の国」では9条など平和の阻害要因以外の何物でもない。

 安倍政権下による特定秘密保護法の制定、集団的自衛権の限定容認といった安全保障政策の転換により日本はより「普通の国」に近づいてきた。

 そういう意味では戦後レジームから部分的には「脱却」したといえる。一方でこれら安全保障政策の転換はアメリカの要求に沿うもの、つまり日米同盟の強化、発展策の一環として行われた。

 この限りでは「戦後レジーム」からの「脱却」というよりも国政情勢に応じた「調整」に過ぎず、要は日米同盟による「9条の不利益」の補完範囲を広げた、「戦後レジーム」の「延長」という評価もできるだろう。言葉遊びかもしれないが「戦後レジーム」に関しては、基本進行は「脱却」であるが、角度を変えてみれば「延長」といったところだろうか。

 確実に言えるのは、安倍首相はかなりの「現実志向」の政治家、つまり冒険や博打を回避しつつ一歩一歩前に進むタイプの政治家である。これには相当な忍耐力が求められ、これは第一次政権の瓦解から学んだものと思われる。より正確に言えば自らに相対する「敵」の性格を文字通り、苦痛を伴う形で理解したのである。

 言うまでもなく「戦後レジーム」からの完全な意味での「脱却」とは憲法9条改正を代表とする日本国憲法の全面改正であり、それは相当な政治的エネルギーが求められる。9条2項が削除すれば日本型リベラルは瓦解するだろうが、それは極めてハードルの高い作業である。 

 だからまずもって9条加憲案を実現し憲法聖典視する風潮を改めて段階的に「完全脱却」を目指すことが現実的かもしれない。

 しかし一方で筆者はあくまで「思考実験」として「改憲不要の戦後レジームからの脱却」も研究すべきだと考える。繰り返しになるが9条2項の削除は政治的に極めて難しい。だからそれを前提にした対応も研究されるべきだろう。

 今、思いつく範囲内でも、それは解釈改憲の徹底であり、日本型リベラルの感覚では完全な意味での「日本国憲法の死文化」である。

 また日本型リベラルの国会進出を阻止するための法律の研究、例えば「政党の定義」を明確化にした立法の制定である。「自衛隊の存在を否定する」とか「在日外国人に地方選挙権を付与する」といった主張する政党には比例議席を配分しないといったものが考えられる。これが実現すれば現在の野党、特に日本共産党議席は大幅に減少するはずである。

 この「改憲不要の戦後レジームからの脱却」についてはいずれ発表したい。

「思想」は死んだが「思考」は生き残った。

 いわゆる「左翼」をより大きい視点で表現すればそれは「進歩」である。過去に世界を席巻した共産主義もまた「進歩」である。左翼の本質は「進歩」派であり、現状の変革を目指す。これを日本に充てはまれば左翼の関心は日本の「遅れ」「歪み」と言った部分である。

 現状の変革を目指す左翼だが問題はこの「変革」の手法である。かつて共産主義者が熱心だったのは「革命」であり、それは要するに暴力による政権転覆である。日本では暴徒による国会、首相官邸の占拠が念頭に置かれ、その準備として大規模デモが行われた。

 こうした左翼の「闘争至上主義」とも言える変革手法は一般国民の反発・嫌悪に会いデモに参加すること自体、忌避させた。運動の対外的拡張が期待できなかった左翼はそのエネルギーを内部に受け、仲間すら攻撃した。いわゆる「内ゲバ」である。

 その結果、左翼はますます大衆的支持を失いその勢力を著しく減退させた。冷戦終了後、「左翼」の権威は更に低下したが消滅したわけではなかった。看板を「左翼」から「リベラル」にかけ替えたのである。便宜上、これを「日本型リベラル」と呼ぶが、その思想・思考は「左翼」時代から続いている。

 日本型リベラルで目立つのは独善から来る攻撃・排他性である。彼(女)らの本音は自らが信奉する「進歩」的思想のためならば反対派の存在自体を否定しても良いと思っている。しかし相手の存在自体を否定することは民主主義に反することである。

 大雑把に言えば民主主義とは相手の存在を否定せず認め「対話」を通じて合意点を見出し段階的に問題を解決していくシステムである。要するに民主主義に「敵」はなく存在するのは「異論」だけである。

 だから相手の存在自体を否定する行為(ほとんどが違法)はもちろん言論であっても存在の否定は認められない。ところが日本型リベラルにこのような発想はなく「異論」に「差別主義者」「ネトウヨ」と言ったレッテル貼りして徹底的に攻撃する。

 この「レッテル貼り」は日本型リベラルの左翼時代からの得意技でかつて共産主義者は対立相手に「反革命分子」という「レッテル貼り」をしてその殲滅(殺害)を図った。対立相手を一度でも流血させればあとはあとはもう泥沼である。憎悪が憎悪を呼び報復が報復を呼ぶ事態になり更なる流血を招く。そして日本型リベラルが主張する「進歩」的社会は一向に建設されない。

 このことから日本型リベラルを評価するにはあたって重要なのは「思想」よりも「思考」である。

 思想とは結果に過ぎない。そして思考とはその結果(=思想)に到達するまでの過程である。日本型リベラルは説明能力・伝達力が欠如しており彼(女)らの「思考」は結局のところ結果(=思想)に到達する過程に立つ「異論」の排除である。

 日本型リベラルが「排除」思考を肯定するのは彼(女)らが基本的に「インテリ」に属するからだ。しかし「インテリ」であっても説明・伝達能力が欠如しているため結局「反社会的インテリ」となってしまう。

 冷戦終結に伴い共産主義「思想」はなくなり、またネット空間の著しい拡大により「思想」はますます観念的となった。もはや、かつてのマルクス主義のように「大理論」が社会を席巻することはないだろう。

 しかし日本型リベラルの攻撃・排他性を見ると進歩的「思想」は死んだが「思考」は生き残ったと言える。むしろ現状打破思考は増長するばかりである。

 最近、LGBT論文の記述内容を巡り総合誌新潮45」が休刊に追い込まれた。出版不況によりもともと経営体力が不足していたこともあるが、日本型リベラルによる集団的威圧を含む抗議活動の結果と言えよう。他人を「説得」せず「攻撃」する、他人の自由を「拡大」させるのではなく「制限」するのが日本型リベラルである。

 また今回の騒動は新潮社内の「路線対立」の結果との指摘もある。今の若者は活字を読まない。政治・思想に関する情報はインターネットから取得する。その良し悪しは別として活字はもはや高齢者にしか需要がなくなった。

 そして今の高齢者、特に全共闘世代は「思想」の洗礼を浴びている。新規顧客の開拓ができないならば固定顧客をターゲットにした販売体制を採るのはある意味、当然である。

 しかしそれは出版社として左右の「路線」を明確にすることに他ならない。今回の休刊騒動を機に出版界はもちろん社会全体の左右対立は先鋭化して行くとも思われる。

 もちろん日本人の多くが「無党派層」であり左右対立と言ってもそれは局所的現象に留まるという指摘もあるかもしれない。

 しかし例え小規模であってもイデオロギー上の対立・衝突はその性格から「大規模衝突」を誘発しかねいし政治家も確実に巻き込まれる。要するに日本型リベラルの攻撃的行動により日本社会は緊張に包まれるのである。

 そしてこのような日本型リベラルの攻撃性を考えれば「日本型リベラル対策」の一環として警察力、特に警備公安警察の画期的増員が必要である。これは保守政権にしかできない。