保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「卑屈な日本人」を求める人々

 日本型リベラルは例外なく護憲派だが、彼(女)らの憲法解釈論を読む限り、その目標は日本国憲法を守るというよりも、その運用を通じて日本から「日本的要素」を可能な限り排除することである。

 だから国旗、国歌など「日本」「日本人」を意識させる物は徹底的に否定する「伝統」「国民国家」ももちろん否定の対象である。

 最近ではバラエティ番組で日本を肯定する表現(日本スゴイ)に対しても批判している。「日本スゴイ」批判論はあまりにもくだらないので批判する気も起きない(それでも今度挑戦してみたい)

 もちろん日本国憲法には天皇条項があり、これはまさに「日本」を意識させる条項に外ならず、当然、日本型リベラルはその廃止(削除)を望んでいるが、政治的反響が大きいので徹底的に無視する戦術を採っている。

 日本型リベラルが排除しようとしている「日本的要素」は単なる制度に留まらず歴史・伝統・意識面までに及んでおり、このことから彼(女)らが排除しようとしている「日本的要素」とは「歴史的共同体として日本」と表現することもできよう。

 もっとも日本型リベラルは日本から可能な限り「日本的要素」を排除しようと努めるが完全には排除しようとはしない。

 日本型リベラルは伝統を否定し国民国家からの離脱をうたい「世界市民」を目指すコスモポリタンではない。もちろん国家・国籍を意識せず国際社会を渡り歩くグローバル・エリートでもない。

 日本型リベラルは明らかに「日本」「日本人」の存在を容認している。何故なら「日本」「日本人」の概念が消滅してしまえば中国・韓国・北朝鮮に謝罪する主体が消滅してしまうからである。これは日本型リベラルにとってとても容認できるものではない。

 日本型リベラルは「日本」「日本人」といったナショナルものを批判するけれど、その存在の完全な否定、離脱をただすわけではなく、実のところ彼(女)らは日本人の中で最も「日本」「日本人」を意識している存在である。

 ナショナルなものへのこだわりはおそらく「保守」以上ではないか。そのこだわる部分が異様なだけであり、やや大胆な表現を使えば日本型リベラルとは「日本人差別」を志向する勢力である。

 だから日本型リベラルが理想とする「日本人」とは中国・韓国・北朝鮮に謝罪し同調し迎合し「経済援助」「経済協力」の名の下、これらの国々に我々日本人の税金を献上する「日本人」である。

 更に政治家はもちろん天皇陛下は8月15日を基軸に中国・韓国・北朝鮮に出向き、謝罪、土下座するのが望ましいと思っている。

 仮に天皇陛下内閣総理大臣がこれらの国々に土下座すれば侮蔑、罵倒、嘲笑に対象となり、それを通じて我々日本人も侮蔑、罵倒、嘲笑の対象となるだろう。そして我々日本人は日本国内にいるにもかかわらず在日コリアン・在日中国人に遠慮しなくてはならなくなる。

 要するに日本型リベラルが理想とする「日本人」とは「卑屈な日本人」であり、それは中国、韓国、北朝鮮の人間の顔色を常に伺い驚くほど卑屈で低姿勢で名誉も尊厳も自ら放棄した人間である。

 そしてそれはこれらの国々の人達に「日本人だからかまわない」「日本人だから、まあいいや」といった「日本人差別」の思想を育ませる。

 卑屈な人間は軽んじられるのが常であり、もしこれが国家レベルで行われれば我々日本人の命も保障されない。

 奇妙なのは戦争体験者を除いて日本型リベラルは特段、「日本」「日本人」であることを理由に迫害されたという事実も聞かないのだ。日本国内なら迫害されることはあり得ないだろう。

 確かに今の日本はブラック企業問題などがあり社会を理不尽と思うことは少なくない。

 しかし例えばブラック企業関係でトラブルが起きればまず関心を持つのはそのブラック企業自体であるし、そこから派生して労働法制などに関心を持つかもしれないが日本全体を呪詛するというのはやはり著しい飛躍である。

 常識的に考えれば社会に参加し辛辣な経験をしたならばその社会を良い方向に改革していきたいと思うものではないか。「リベラル」を自称するならば「自分と同じ経験をさせたくない」という視点を持ち日本を呪詛することなく社会改革を主張するはずである。

 だから少し大胆なことを言えば日本型リベラルとは就職などを通じて社会に参加し、その経験・反動で形成されたものではなく実社会とは接点が著しく少ない存在ではないか。 

 マスコミ・大学は保護産業であり、競争原理は機能しないし、むしろそれを当然だと思っている節がある。競争原理が機能しない職業と言えば公務員が話題に上ることが多いが公務員はその批判を受けて議会を始めとした外部審査が行われている。

 しかしマスコミ・大学はどうだろうか。「報道の自由」「学問の自由」を掲げ優遇措置を当然視、自らを一段高みに置いて社会から超越した存在という意識があるのではないか。

 そして社会との接点が少ないから他人を説得する能力が身につかない。説得に失敗すれば相手の理解力・能力不足を批判しむしろ自分はその被害者だという意識すら持つ。

 この環境・意識から「反社会インテリ」が誕生するのである。また「インテリ」に該当しない日本型リベラルも奇妙な者が非常に多い。

 最近、左翼・リベラル系デモの人員構成を見てもやはり高齢者が主体でたまに注目される中年・若者は奇人・変人・不良分子ばかりである。

 もちろんこれらの存在はその振る舞いから元々注目されやすいがそれを差し引いてもやはり目立つ。

 年金生活者たる高齢者はとても社会参加していると言えないし(むしろ社会から支援されている存在)奇人・変人・不良分子は社会からの脱力組である。控えめに言って後者は長期不況の被害者かもしれないがつきあう必要はない。つきあっても時間とエネルギーの浪費である。

 論を整理すれば日本型リベラルは「反社会インテリ」「奇人」「変人」「不良分子」から成る勢力である。要するに我々、市民社会の「外」にいる勢力である。その中核は言うまでもなく反社会インテリである。

 彼(女)らは社会を憎悪し、そこから発展して日本を憎悪し「反日」活動に勤しむ。 

 そしてその活動を正当化するのが日本国憲法である。だから憲法9条2項が削除されれば日本型リベラルは消滅するだろう。

 こう考えると日本型リベラルとは実に脱力感を誘う勢力である。しかしこうした勢力は説得困難なため案外、てごわい。だから自らの安全を絶対的に確保(匿名の徹底等)したうえで情報収集に努め、その実態をネットでの暴露を通じて解体していくほかない。個人レベルの活動ではこれが限界だろう。しかし積み重ねれば大きな「力」になり、いずれ解体できると筆者は信じている。