保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「臣民」という民主革命~教育勅語を通じて考える~

 安倍政権が内閣改造を行い新大臣たる柴山文部科学大臣が記者から教育勅語に関する質問を受けて「現代風に解釈され、あるいはアレンジした形で、道徳などに使うことができる分野というのは十分にある。普遍性をもっている部分がみてとれる」と発言しちょっとした話題になっている。反安倍勢力、日本型リベラルはまたぞろ「戦前回帰だ」とか批判している。そこで本稿では教育勅語について論じたい。

 教育勅語は戦後の進歩的知識人の中では極めて評判が悪かったのは論をまたない。内容に「普遍性」が確認できたとしてもその復活はもちろん国がそれに準ずるものを学校現場に持ち込むことに強く反対した。現在、「道徳」が科目化されているがそれへの反発の源流も教育勅語にあるのは間違いない。

  教育勅語の評判が悪いのは文中に「臣民」という言葉が入っているからだろう。「臣民」は大日本帝国批判の代表的用語であり「臣民」とは即ち「天皇の臣下」「天皇との主従関係」を想起させ、そこに自主性はなく「従属」を想起させる。しかしこれは多分に戦後的価値観、表現である。

 確かに「臣民」は主従関係を想起させるが一方でそれは政治参加を意味した。江戸時代までは政治に参加できるのは「君主」と「臣民(=臣下)」だけであり、大多数の民衆は政治の外にいた。

 雑駁に言えば江戸時代までの社会構造は「君主>臣民>民」から成っていた。だから教育勅語を制定した明治23年(1890年)時点で「民」を「臣民」と表現することは「民」の「臣民」への「格上げ」に他ならず極めて肯定的意味があった。

 戦後的価値観、表現に基づけば「民」と「臣民」の言葉を並べた場合、ほとんど全部の人が「臣民」という言葉を「下」に見るだろう。

 しかし封建時代の残滓がある社会では必ずしもそうではなかった。安易に「臣民」を否定せず「民」を「臣民」化する。既存の価値観、表現を否定せずそれを尊重したうえで改革を進めて行く明治政府のリアリズムが読み取れるのではないか。

 もし教育勅語大日本帝国憲法を通じて日本人が「臣民」化されていなければ戦前日本の民主運動は失敗に終わっただろう。今まで政治の外にいた「民」が唐突に権利獲得運動を起こしても単なる「一揆」と見なされて大衆的支持はもちろん知識人の支持も得られなかったに違いない。

 だから「民」を「臣民」と表現した教育勅語は「民」の政治参加を促進させた一種の「民主革命」である。要するに教育勅語は民主主義を促進させたのである。

  なによりも「天皇の臣下」たる「臣民」になったとしてもそもそも天皇は自ら政治を行う主体ではない。「天皇親政」は大日本帝国下でも予定していなかった。要するに君主は臣下に干渉しないのである。干渉してこない君主との間に実質的な意味での「従属」関係は成立するわけがない。

 また「臣民」は社会低地位によって区分されなかった。大学教授や医者も「臣民」であり、農民や労働者もまた「臣民」だった。もっと言えば大日本帝国では内閣総理大臣も名もなき民衆も等しく「臣民」だったのである。

 ここに「天皇の前では皆同じ」という平等思想が読み取れる。これは「一君万民」と呼ばれた。この「一君万民」の理念は戦前期において大きな力を発揮した。有名なのは昭和の青年将校運動だろう。彼らは時の内閣、宮中関係者を「君側の奸」即ち天皇と臣民の間に立つ「中間遮蔽物」とみなし実力行使で排除した。いわゆる2.26事件である。

 「君主に干渉されない臣民」「社会的地位で区分されない臣民」こう考えると「臣民」は案外、自主性がある。確実に言えることは大日本帝国下で「臣民」だった我々の先祖はかなりしたたかだったことである。

 柴山大臣の発言が今後、どのような影響を与えるのかわからない。しかし教育勅語が制定されたもはや100年以上たっている。その批判が開始された「戦後」も70年以上経過している。これを機に教育勅語全体はもちろん勅語に記されている「臣民」についても落ち着いた議論をしても良いのではないか。