保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「戦後レジーム」からの「脱却」or「延長」か~安倍政権評~

 安倍首相は第一次政権の時に「戦後レジームからの脱却」を提唱した。「戦後レジーム」が具体的にどのようなものかは説明されていないが日本国憲法がその中核に含まれているのは間違いなく、「脱却」には当然、日本国憲法の改正が含まれている。

 また「戦後」という表現がある限り、日米同盟も含まれているだろう。「戦後レジーム」を論ずるにあたっては日本国憲法と日米同盟を除外する論者はいないはずである。

 第一次安倍政権では教育基本法改正や防衛庁の「省」への格上げが行われ、これは日本型リベラルの反発を買った。

 しかし、周知のとおり2007年の参議院選挙で自民党が大敗したことにより、第一次安倍政権は瓦解した。

 2012年に復活してからの安倍政権では「戦後レジームからの脱却」という言葉は使用されていない。恐らくこの言葉を使用すること自体、日本型リベラルを興奮させ無用な摩擦を生むという判断からだと思われる。

 しかし筆者は安倍政権を評価するにあたってこの「戦後レジーム」という言葉は注目に値するものだと考えている。

 実際、安倍政権下で制定された法律、代表的なものを挙げれば特定秘密保護法、安保法制、共謀罪などは昭和の時代ならばとても成立しなかったものである。日本型リベラルも同じ感想だろう。だからこそ彼(女)ら安倍政権を過剰なまでに攻撃するし、もっと言えば彼(女)らの感覚では「戦後レジーム」も完全ではないこそかなりの程度「脱却」されているはずである。

 では実際のところ「戦後レジーム」からの脱却を進んだろうか。前記したように「戦後レジーム」の中核は日本国憲法であるが、憲法改正にはいたっていない。

 日本国憲法は中核であるが、それだけで戦後レジームが成立しているわけではない。法次元で言えば憲法の理念を反映させた関係法もまた重要であり、特定秘密保護法、安保法制などはそれを改めるものであった。日本型リベラルの理解では憲法9条という「本丸」の改正に向けて「外堀」が着実に埋められているといったところだろうか。

 戦後日本において憲法の関心はやはり憲法9条であり、これが淵源となり自衛隊の実力・行動には制約がかけられた。一方でこの制約によるマイナスは日米同盟が補完していた。

 「専守防衛」「GDP比1%の防衛予算」は日米同盟があったからこそ成立したものであり、日本自ら積極的に「対米依存」を選択したと言える。

 このことから「9条の不利益」を「日米同盟の利益」が補完していたのが「戦後レジーム」とも言える。

 そして「中国台頭」に伴う国際情勢の著しい変化によりアメリカの軍事面における圧倒的優位は保障できなくなってきた。地政学的に見れば中国の台頭に最も影響を受けるのが日本である。だからアメリカが「中国台頭」を受けて防衛面で対日負担の増大を要求するのは筋が通っている。

 またその対日負担要求も秘密情報の保護や集団的自衛権の解除と言った防衛予算の増大を伴わないものである。この次元の対日要求は日本の安全保障政策の「国際標準」化もっと言えば「普通の国」化である。「普通の国」では9条など平和の阻害要因以外の何物でもない。

 安倍政権下による特定秘密保護法の制定、集団的自衛権の限定容認といった安全保障政策の転換により日本はより「普通の国」に近づいてきた。

 そういう意味では戦後レジームから部分的には「脱却」したといえる。一方でこれら安全保障政策の転換はアメリカの要求に沿うもの、つまり日米同盟の強化、発展策の一環として行われた。

 この限りでは「戦後レジーム」からの「脱却」というよりも国政情勢に応じた「調整」に過ぎず、要は日米同盟による「9条の不利益」の補完範囲を広げた、「戦後レジーム」の「延長」という評価もできるだろう。言葉遊びかもしれないが「戦後レジーム」に関しては、基本進行は「脱却」であるが、角度を変えてみれば「延長」といったところだろうか。

 確実に言えるのは、安倍首相はかなりの「現実志向」の政治家、つまり冒険や博打を回避しつつ一歩一歩前に進むタイプの政治家である。これには相当な忍耐力が求められ、これは第一次政権の瓦解から学んだものと思われる。より正確に言えば自らに相対する「敵」の性格を文字通り、苦痛を伴う形で理解したのである。

 言うまでもなく「戦後レジーム」からの完全な意味での「脱却」とは憲法9条改正を代表とする日本国憲法の全面改正であり、それは相当な政治的エネルギーが求められる。9条2項が削除すれば日本型リベラルは瓦解するだろうが、それは極めてハードルの高い作業である。 

 だからまずもって9条加憲案を実現し憲法聖典視する風潮を改めて段階的に「完全脱却」を目指すことが現実的かもしれない。

 しかし一方で筆者はあくまで「思考実験」として「改憲不要の戦後レジームからの脱却」も研究すべきだと考える。繰り返しになるが9条2項の削除は政治的に極めて難しい。だからそれを前提にした対応も研究されるべきだろう。

 今、思いつく範囲内でも、それは解釈改憲の徹底であり、日本型リベラルの感覚では完全な意味での「日本国憲法の死文化」である。

 また日本型リベラルの国会進出を阻止するための法律の研究、例えば「政党の定義」を明確化にした立法の制定である。「自衛隊の存在を否定する」とか「在日外国人に地方選挙権を付与する」といった主張する政党には比例議席を配分しないといったものが考えられる。これが実現すれば現在の野党、特に日本共産党議席は大幅に減少するはずである。

 この「改憲不要の戦後レジームからの脱却」についてはいずれ発表したい。

「思想」は死んだが「思考」は生き残った。

 いわゆる「左翼」をより大きい視点で表現すればそれは「進歩」である。過去に世界を席巻した共産主義もまた「進歩」である。左翼の本質は「進歩」派であり、現状の変革を目指す。これを日本に充てはまれば左翼の関心は日本の「遅れ」「歪み」と言った部分である。

 現状の変革を目指す左翼だが問題はこの「変革」の手法である。かつて共産主義者が熱心だったのは「革命」であり、それは要するに暴力による政権転覆である。日本では暴徒による国会、首相官邸の占拠が念頭に置かれ、その準備として大規模デモが行われた。

 こうした左翼の「闘争至上主義」とも言える変革手法は一般国民の反発・嫌悪に会いデモに参加すること自体、忌避させた。運動の対外的拡張が期待できなかった左翼はそのエネルギーを内部に受け、仲間すら攻撃した。いわゆる「内ゲバ」である。

 その結果、左翼はますます大衆的支持を失いその勢力を著しく減退させた。冷戦終了後、「左翼」の権威は更に低下したが消滅したわけではなかった。看板を「左翼」から「リベラル」にかけ替えたのである。便宜上、これを「日本型リベラル」と呼ぶが、その思想・思考は「左翼」時代から続いている。

 日本型リベラルで目立つのは独善から来る攻撃・排他性である。彼(女)らの本音は自らが信奉する「進歩」的思想のためならば反対派の存在自体を否定しても良いと思っている。しかし相手の存在自体を否定することは民主主義に反することである。

 大雑把に言えば民主主義とは相手の存在を否定せず認め「対話」を通じて合意点を見出し段階的に問題を解決していくシステムである。要するに民主主義に「敵」はなく存在するのは「異論」だけである。

 だから相手の存在自体を否定する行為(ほとんどが違法)はもちろん言論であっても存在の否定は認められない。ところが日本型リベラルにこのような発想はなく「異論」に「差別主義者」「ネトウヨ」と言ったレッテル貼りして徹底的に攻撃する。

 この「レッテル貼り」は日本型リベラルの左翼時代からの得意技でかつて共産主義者は対立相手に「反革命分子」という「レッテル貼り」をしてその殲滅(殺害)を図った。対立相手を一度でも流血させればあとはあとはもう泥沼である。憎悪が憎悪を呼び報復が報復を呼ぶ事態になり更なる流血を招く。そして日本型リベラルが主張する「進歩」的社会は一向に建設されない。

 このことから日本型リベラルを評価するにはあたって重要なのは「思想」よりも「思考」である。

 思想とは結果に過ぎない。そして思考とはその結果(=思想)に到達するまでの過程である。日本型リベラルは説明能力・伝達力が欠如しており彼(女)らの「思考」は結局のところ結果(=思想)に到達する過程に立つ「異論」の排除である。

 日本型リベラルが「排除」思考を肯定するのは彼(女)らが基本的に「インテリ」に属するからだ。しかし「インテリ」であっても説明・伝達能力が欠如しているため結局「反社会的インテリ」となってしまう。

 冷戦終結に伴い共産主義「思想」はなくなり、またネット空間の著しい拡大により「思想」はますます観念的となった。もはや、かつてのマルクス主義のように「大理論」が社会を席巻することはないだろう。

 しかし日本型リベラルの攻撃・排他性を見ると進歩的「思想」は死んだが「思考」は生き残ったと言える。むしろ現状打破思考は増長するばかりである。

 最近、LGBT論文の記述内容を巡り総合誌新潮45」が休刊に追い込まれた。出版不況によりもともと経営体力が不足していたこともあるが、日本型リベラルによる集団的威圧を含む抗議活動の結果と言えよう。他人を「説得」せず「攻撃」する、他人の自由を「拡大」させるのではなく「制限」するのが日本型リベラルである。

 また今回の騒動は新潮社内の「路線対立」の結果との指摘もある。今の若者は活字を読まない。政治・思想に関する情報はインターネットから取得する。その良し悪しは別として活字はもはや高齢者にしか需要がなくなった。

 そして今の高齢者、特に全共闘世代は「思想」の洗礼を浴びている。新規顧客の開拓ができないならば固定顧客をターゲットにした販売体制を採るのはある意味、当然である。

 しかしそれは出版社として左右の「路線」を明確にすることに他ならない。今回の休刊騒動を機に出版界はもちろん社会全体の左右対立は先鋭化して行くとも思われる。

 もちろん日本人の多くが「無党派層」であり左右対立と言ってもそれは局所的現象に留まるという指摘もあるかもしれない。

 しかし例え小規模であってもイデオロギー上の対立・衝突はその性格から「大規模衝突」を誘発しかねいし政治家も確実に巻き込まれる。要するに日本型リベラルの攻撃的行動により日本社会は緊張に包まれるのである。

 そしてこのような日本型リベラルの攻撃性を考えれば「日本型リベラル対策」の一環として警察力、特に警備公安警察の画期的増員が必要である。これは保守政権にしかできない。

 

「保守」の考えるヘイトスピーチ規制~現行法を基礎として~

 日本型リベラルの最近の関心テーマとして「ヘイトスピーチ規制」が挙げられる。

 インターネットの発展に伴い言論空間は著しく拡大した。それに伴い常人ならば目を向けたくなるような表現も大幅に増加した。

 ネット上には在日コリアンへの悪罵があふれており、その影響はネット外にも波及した。いわゆる「行動する保守」の一部団体が公の場で「在日コリアン」の殺害を煽動する表現は「ヘイトスピーチ」という言葉に「市民権」を与えたとともにその規制の論議を活発化させ、遂にはヘイトスピーチ規制法たる「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」を成立させた。

 同法は理念法であり、その実効性には様々な意見があるが兎に角にもヘイトスピーチ規制が進んだ。行政側から「ヘイトスピーチ、許さない」という文章が記されたポスターが掲示もされた。行政が出すポスターとしてはかなり強烈ものである。

 ヘイトスピーチ規制が「理念法止まり」なのはある意味当然で規制論議を進めて行けば表現の自由と衝突するからである。また議論されているヘイトスピーチは専ら在日外国人に対してだけであり、在日外国人が日本人に対するものは規制の対象外とされている。議論の発端を考えればある意味当然だがやはり違和感がある。根底にあるのは在日外国人=「弱者」という思考であることには間違いない。

 注意しなくてはならないのは今後日本では若年労働力不足の関係から在日外国人が確実に増えることである。そのことをもって「日本が移民国家になった」と評せるかどうかはわからないがいずれにしろ在日外国人は確実に増えるのである。地域によって外国人が日本人より多数派になる可能性もある。

 そして来日が期待されている外国人は基本的に若者である。異国の地で出身国同士が結束することは不思議ではなく多数の若者が結束して行動した場合、それを制止するのは難しい。女性や子供、高齢者ではまず不可能ではないか。細かな話になるが一口に外国人と言っても例えば黒人はやはり体格が良く存在感が大きい。この「体格差」というのは案外、無視できない。

 屈強な体格を持つ相手と対等にやり取りすることは簡単ではない。初対面ではまず無理ではないか。特に女性や子供には相当に難しいと思われ、日本型リベラル流に表現すれば「弱者」は屈強な外国人と対等にやり取りできないと思われる。

 仮に「弱者」が人間の防衛本能に基づき「黒人は体格が良いから怖い」など言えばたちまち日本型リベラルは「ヘイトだ」「差別だ」と言って攻撃するに違いない。こう考えるとヘイトスピーチ問題は日本の事情に合わせたものが求められる。

 前記したようにヘイトスピーチ規制は表現の自由に抵触する可能性があり議論が発展しにくい。だが不可能ではない。少なくとも「他人への犯罪行為を促す」という点で言えば現行法においても「煽動罪」というものがある。

 例えば破壊活動防止法は政治目的の騒乱を煽動することを犯罪化しているし、過去には60年安保闘争後の政治暴力を規制する目的で政治目的の殺人煽動罪(政治目的暴力行為防止法)の新設が国会で審議されたこともある。同法は衆議院こそ通過したが参議院で審議未了と廃案となってしまった。もし同法が成立していたならば冒頭で触れた殺人を煽動した「行動する保守」の一員は逮捕されたはずであり、その場合、現在のヘイトスピーチ規制の議論は大きく異なっていたかもしれない。

 破壊活動防止法に規定される煽動罪についてはかつて極左暴力集団が暴動を煽動した際に適用された。もちろんそれは戦後刑事政策において「例外的」な扱いであったが一定の効果はあったように思われる。武器を持ちその使用をちらつかせるのと武器を持たないことには天と地の差がある。

 また「行動する保守」界隈の在日コリアンへの集団的威圧を見る限り彼(女)らに感じるのは「短慮」であり強烈な主義・主張があるとはとても思われない。もちろん首領・幹部層は強烈な主義・主張を持つ「活動家」なのだろうがそういう者は基本的に少数である。

 「短慮」から構成される集団的威圧ならば、参加者に「あなたのやっていることは違法行為になりますよ」と警告するだけで彼(女)らはその行為を止めると思われる。

 このように煽動罪は現に幾つかの法律に存在しているのだから議論も不可能ではないし、ヘイトスピーチの性質上、その規制に効果が期待できる。

 また、ヘイトスピーチ規制の一環としてネット動画、掲示板といった情報プラットホームの規制も主張されている。情報プラットホームが拡大することは基本的に望ましいことであり、これを規制することは「病気は治したが患者は死んだ」ことになりかねない。

 社会の情報量が増えることは民主主義社会の発展に資するので規制どころか積極的に拡大させていくべきである。むしろヘイトスピーチ対策の基本は「情報空間の拡大を通じての言論・思想市場の活性化」であることを忘れてはならない。

 あくまで言論・思想競争を通じてヘイトスピーチを淘汰させることが基本である。

 しかし驚くことに日本型リベラルは情報プラットホームの規制に案外、好意的なのである。最近、Youtubeでは保守系チャンネルが次々と閉鎖に追い込まれた。明らかに「狙い撃ち」である。 これに対して「リベラル」を自称する知識人・ジャーナリストの中から批判の声が上がったということは特に聞かない。

 また日本型リベラルの一部の論者はヘイトスピーチ規制の名目のもと専門家・有識者から成る監視団体の結成を提案している。「国家権力による規制ではないから問題ではない」という主張なのだろうが権力を憲法に規定してものに限るべきではない。他人の自由を制約できるものは即ち権力である。大体、この論法でいけば例えば私企業による労働者への人権侵害など規制できなくなるではないか。

 他人を「説得」せず「攻撃」する、他人の自由を「拡大」させるのではなく「規制」するのが日本型リベラルである。彼(女)らにヘイトスピーチ規制論の主導権を握らせることは極めて危険である。だからこそ我々「保守」がヘイトスピーチ規制について一定の見解を示す必要がある。

 ヘイトスピーチで注目されるのは街頭のデモであり、この様子がネット動画に掲載され、それが更にネット上のヘイトスピーチを過激化させている。街頭のデモでは左右問わずプラカード、旗、のぼり、拡声器、音響機材は必須のものであり、これらがデモに「勢い」を与えている。「過激化の誘発物」と評価しても良い。

 逆に言えばこれらの器具の使用を規制すればデモの「勢い」も大きく削がれる。平穏なデモなど盛り上がらず誰も注目しない。現在でも静穏保持法に基づき国会、外国公館周辺では拡声器の使用が現場警察官の命令に基づき中止できる。

 このように運動の過激化を誘発させる器具の使用を規制できる立法があるのだから積極的に参考にすべきである。例えば拡声器を用いて他人に危害を加えることを正当化する主張をした者には、現場警察官の判断でその拡声器を「一時保管」できるようにする、あるいは旗に他人を侮辱する文字が掲載された場合はやはり現場警察管の判断でその旗を「一時保管」できるようにするなどの規制手段が考えられる。ここではあえて「逮捕」ではなく「一時保管」を例示したが日本社会における「逮捕」の衝撃性を考えれば「逮捕」よりも「一時保管」の方がはるかに平穏である。

 このようにヘイトスピーチ規制を論ずるにあたってはまずもって現行法の再検証が必要である。

 そしてこうした対策を提示できるのはやはり「保守」だけである。

 

「反社インテリ」としての日本型リベラル

 日本型リベラルの特徴は「リベラルな社会」を建設することではなく「リベラルの敵」を攻撃することであり、そこから「責任と現実の積極的無視」という性格が確認できる。

 実際、日本型リベラルに対する批判はその内容よりも振る舞いの方が大きいのではないだろうか。彼(女)らの攻撃的言動、姿勢には驚かされることが多い。

 そして攻撃的振る舞いをしても彼(女)らの生息地は既得権益だからそれをたしなめられることもないから増長する一方である。その増長はもはや極限に達している。

 何よりも日本型リベラルの基本的立ち位置は「在野」だから自らの発言に責任を持つこともない。一般に「説明責任」とは責任ある立場にある者に課されるものである。

 戦後、ほとんど期間において日本型リベラルは「在野」にあり「責任と現実の積極的無視」をしていたから他人を説得する能力が育たなかった。ここが重要である。

 雑駁に言えば日本型リベラルの最大の問題点は「他人を説得する能力の欠如」だろう。

 他人を説得するにあたって求められるのは「知識」だけではなく「態度」も極めて重要である。居丈高の態度をとった瞬間、他人は説得を受け入れてない。説得はあくまで相手に合わせて行うものである。こう考えると他人を説得するにあたって最も必要なものは知識ではなく忍耐である。説得の進行も直ちに「解決」に向かうものではない。    

「三歩進んで二歩下がる」の繰り返しである。それでも「解決」に向かうのだから問題はないが、日本型リベラルは説得が成立がしないためいつまでもたっても「解決」に向けて半歩も進まない。永遠に現状維持である。

 このことからリベラルに求められることは「進歩的知識」ではなく「忍耐」と言えよう。知識を振りかざして他人を攻撃するなどリベラルでもなんでもない。

 しかし、人間とは案外、自分が聞いたことがない言葉、特に「難解な言葉」を聞くとその発言者が立派な人間と思ってしまうものだ。これは高齢者に多いように思われる。

 ジャーナリスト、大学教授にはリベラルを自称する者が多い。彼(女)らは基本的に高学歴であり、世間一般の理解では「有能」に分類される。

 控えめに言って日本型リベラルは知識が豊富であり頭の回転も速い。反面、説得能力・伝達能力がないためその知識は他人に伝わらない。日本型リベラルの視点で見れば「どうして相手は理解できないのか」といったところだろう。

 そしてこの視点から他人を侮蔑する感情や被害者意識も醸成される。また「有能な自分の意見が採用されない日本社会」を日本型リベラルが肯定的に評価することはない。

 こういう勢力が社会において少数派になることはある意味、当然であるし、少数派をやや大胆に言い換えれば「社会に参加できない勢力」とも表現することもできる。何故なら社会とは多数派によって建設されるものだからだ。だから日本型リベラルとは「社会に参加できない勢力」と言える。

 普通、社会に参加できなければ人間、苦悩するものだが、日本型リベラルは悩まない。既に指摘したように彼(女)らの生息地は既得権益であり、社会に参加しなくても生活に困らない。むしろエリート意識をこじらせて意識面では社会を超越している。彼(女)らにとって「日本」とは指導・鞭撻の対象に過ぎない。立ち位置は「日本」より上に居る。そして説得能力の欠如ゆえ日本社会から反発を受け、彼(女)らは反社会的(反日)になる。だから日本型リベラルは「反社会的インテリ」と表現できよう。

 彼(女)らは批判すべき対象であるが決して侮蔑して終わらせて良い存在ではない。過小評価は禁物である。

 ではこの「反社インテリ」たる日本型リベラルをせめて「健全なインテリ」に「転向」させることはできないだろうか。優等生的回答で言えば彼(女)らに責任ある立場に就かせることが最も効果的手法である。

 しかし、それもなかなか難しいような気がする。だから「健全なインテリ」への「転向」はあきらめて思い切って憲法改正の機運を高めて9条2項を削除する、日本国憲法聖典化している日本型リベラルは9条2項が削除されればたちどころ消滅する。

 だから世論に改憲を訴えるにあたって併せて日本型リベラルについても触れる必要がある。今後、改憲に向けて様々な情報が発信がされるが、その内容を今一度検証してみるべきだろう。

 

 

 

 

日本型リベラルの生息地を考える

 日本型リベラルが世界のリベラルとは似て非になる存在であることはよく指摘される。

 日本型リベラルは戦後日本に「大日本帝国の実在」を嗅ぎ取り、それへの「抵抗」「対決」を主張する。その手法はもっぱら「院外運動」であり好まれるのはデモである。一方でリベラル系マスコミによる反社会的な取材方法も見逃せない。「夜討ち朝駆け」の名目による特定個人のプライバシーの侵害、メディア・スクラムという集団的威圧も注目される。

 「抵抗」「対決」路線を強調し過ぎたためデモには過激分子が流入し、それが一般人のデモへの忌避感を生み、デモへの参加者は減少した。90年代以降、デモに積極的に参加する者は「プロ市民」とまで呼ばれるようになった。もちろんこれは侮蔑的表現である。

 東日本大震災に伴う原発事故や安保法案を巡りデモは活性化したように見えたがやはり全体としては低調傾向である。

 いかなる存在も自らの勢力を拡大させたければ大衆を意識する。デモなど大衆を意識しなければ拡大しようもないはずだが日本型リベラルにその意識は希薄であり、前記したように過激分子の流入を阻止しなかった。

 デモを担う主体はいつの時代も労働組合だが、とりわけ官公庁系労働組合は過激で有名であり旧国鉄労働組合の戦闘力はよく知られた。官公庁系労働組合が過激化した理由は言うまでなく彼(女)らが倒産リスクのないある種の既得権益だったからである。

民間企業の労働組合ならば闘争如何によっては「共倒れ」になる。だから労使協調が進む。しかし官公庁系労働組合にはこの種の制約要因はない。

 またリベラル系マスコミがメディア・スクラムで特定個人の攻撃が行えるのは言うまでもなく日本のマスコミもまた既得権益だからである。「新聞代金の一斉値上げ」など本来なら許されないことである。

 更に彼(女)らは批判されれば「報道の自由」を叫びそれに抵抗するし実際にどの抵抗に成功している。時々、テレビでマスコミ幹部が政治情勢を語ることがあるが、総じて思うのは高齢者が多いということだ。読売新聞社長の渡邊恒雄氏も相当な高齢であり、マスコミ幹部でこそないが田原総一朗氏も同様である。80、90歳を超えた老人に世の中の何がわかるのだろうか。まさに「年寄りの冷や水」である。

 そして高齢者が幅を利かすことは既得権益の典型的特徴であり内部にまともな競争原理は作用していないのである。そしてこのメディアを媒介して自説を発信するのがリベラル系学者である。政策として大学は普通、潰さない。むしろ増やすものである。だから淘汰のリスクも基本的にはない。

 また人文系学問は客観的評価が難しいため競争原理が働きにくい。人文系学問の世界では教授と学生の間に前時代的な「師弟関係」が築かれているのが実情ではないか。だからそう意味では大学もまた既得権益とも言える。

 論を整理すれば日本型リベラルの生息地は官公庁系労働組合、マスコミ、大学であり皆、雇用不安がなく競争原理が働かない既得権益である。反社会的な行動をしても組織自体が潰れるわけではないから彼(女)らはいくらでも増長する。

 中長期的に見ればこうした増長・過激化・偏向が彼(女)ら自身の衰退を招いているのだが、それでもしぶとく活動し政治・社会を混乱させているし、むしろ日本国憲法を守るためならば日本を滅亡させても構わないという勢いである。

 仮に日本型リベラルに「日本国憲法のない日本を愛せますか」と質問すればほとんど全部が「愛せない」と言うだろう。

 彼(女)らが守りたいのは日本ではなく日本国憲法である。日本国憲法聖典化し同憲法と自らを同一化して「選民」意識を醸成している。

 論を戻そう。日本型リベラルの生息地は基本的には既得権益であり、要するに法に基づき「特例」扱いを受けているだけである。だから日本国憲法下でもその改革は可能である。憲法改正に向けて必要な作業はまずこれら既得権益の解体だろう。

 

「弱者」を欲する日本型リベラル

 日本型リベラルが好んで行うことは社会を諸集団に分類することであり、分類するにあたって重視されるのは「加害者/被害者」「強者/弱者」「抑圧者/犠牲者」といった対立軸である。そして当然のように両者の対立・衝突を煽動する。

 日本型リベラルは「被害者」「弱者」「犠牲者」から成る関係団体を組織し、自らがその「顧問」とか「アドバイザー」になり、「加害者」「強者」「抑圧者」の勤務地前にデモなどを仕掛ける。デモの規模が大きくなれば大手マスコミも注目し、それが「加害者」「強者」「抑圧者」に対して更なる圧力となる。

 世間の注目が集まれば勤務地になんらかの電話も来るだろうし野次馬・好事家もくるかもしれない。言うまでもなく日本型リベラルはそれを意図している。

 もちろん民主主義社会でデモは認められているしそれが必要な場合があろう。しかし過剰なものは集団的威圧に過ぎず最悪、暴動に転化する恐れがある。もっとも日本型リベラルはそうなっても構わないと思っている節すらある。

 そもそも日本型リベラルが好む「被害者」「弱者」「犠牲者」という分類・評価は本当に妥当なのか。仮にそうだとしてもなぜ威圧の類を選択するのか。もっと平和的手段があるのではないか。

 最近、LGBTを巡り自民党所属国会議員の杉田水脈氏の月刊誌の寄稿文の表現が強い非難を浴びた。確かにLGBT問題に関して杉田氏の知識不足・表現力不足はあったかもしれないが、自民党本部前に大規模デモをけしかけたり杉田氏個人を攻撃するような手法は明らかに異常である。

 日本型リベラルは2項対立を好み、また両者の和解をただし対立軸を消滅させることもない。むしろその対立軸を固定化させようとする。

 だから「被害者」「弱者」「抑圧者」はいつまでたっても自立せず永久に「被害者」「弱者」「抑圧者」のままでいる。

 この2項対立の中で日本型リベラルの立ち位置を確認しておこう。彼(女)はもちろん「被害者」「弱者」「抑圧者」の側にいるが当然、対等ではない。煽動者と被煽動者の関係は基本的に上下関係にあり、つまり日本型リベラルは2項対立を作り上げることで半ば超越者として振舞えるのである。守られる存在とは基本的に「下」に位置することに注意したい。

 日本型リベラルは「被害者」「弱者」「抑圧者」への補償を求めるのが常だが、現代社会における補償とは金銭によるものが一般的である。金銭を支払えばそれで補償は完了し日常に戻るのが普通だが日本型リベラルはそれで終わらせない。

 例えば啓発事業を名目にした講演会の開催、学校教科書への記述追加など日本型リベラルが仕掛けた運動は「事業化」され、日本型リベラルは自らがその運営者になる。

 こうした「事業化」には国民の税金が投入され「講演料」などの名目で日本型リベラルにもその一部が入る。そして2項対立の固定化が長引くことによりどういうわけか「被害者」「弱者」「犠牲者」の方が例えば雇用面で優位になるなど倒錯した現象が生じる。

 こうした日本型リベラルの行動が国境を越えて展開されたのが戦後補償問題である。

 従軍慰安婦問題などはその最高の例で彼(女)らは海外で「大日本帝国の被害者」をわざわざ探しだし「戦後補償は終わっていない」とか「戦争責任」を殊更、強調して日本政府への謝罪と賠償を求めた。

 従軍慰安婦問題のように民間レベルでの補償の枠組みが成立したにもかかわらずそれを利用せず「真の補償が必要だ」などと叫び問題を複雑化させる。そしてどういうわけか運動の途中に「護憲」や「昭和天皇の戦争責任」を訴えたりする。

 日本型リベラルにとって日本国憲法下の日本であってもそれは「大日本帝国の後継国家」であり、その文脈で我々日本人は犯罪者予備軍扱いになる。

 日本型リベラルは「被害者」「弱者」「抑圧者」を救済する存在ではなく、彼(女)らを自らの存在証明・立身出世の道具として消費するだけの存在である。

 昔は「被害者」「弱者」「抑圧者」がリベラルを欲していると言われていたがもはやその関係は逆になっている。

 自らの存在証明・立身出世のために「被害者」「弱者」「抑圧者」を消費し社会の対立・衝突・分断を進める日本型リベラルの存在は有害でしかない。そして従軍慰安婦問題のように国際問題まで引き起こしているから日本の安全保障にすら害を与えているのである。日本型リベラルの解体は急務と言える。

戦後日本の左翼対策

 現在、日本型リベラルへの対策が急がれるが、それについて語る前に日本近現代史における左翼対策について概観したい。戦前の「左翼対策」は言うまでもなく「日本共産党対策」が主軸であり、治安維持法に代表される各種治安立法を駆使し文字通り壊滅させた。しかし治安維持法は構成要件が曖昧であり、徹底した拡大解釈がなされたため自由主義者も適用対象となってしまった。

 戦後、GHQの圧力により同法は廃止され「主敵」であった日本共産党関係者が釈放されたこともあってか治安維持法は「天下の悪法」と評さるほどになった。現在もこの評価は変わってはいない。

 戦前の左翼対策はまさに「力」の対策だった。そして戦後、警察が対峙すべき左翼勢力は戦前のそれとは比較にならないほど強力だった。

 戦後の左翼世界における日本共産党の知的権威は突出したものであり「インテリ」に分類されるものはほとんど全部が日本共産党を支持した。例えば読売新聞社長の渡邉恒雄氏が日本共産党員だったことはよく知られている。

 とりわけ終戦直後の知的世界はまさに「共産党にあらずんば人にあらず」の状態であった。1951年の日本共産党武装蜂起の失敗により同党は国会での議席を全て失い知的世界でもその支持は頭打ちになったがやはり戦後の左翼における日本共産党の存在感は圧倒的であった。

 左翼運動の基本は大規模デモであり今も昔もこの基本は変わらない。おそらく永遠に変わらないだろう。しかし昔の左翼の大規模デモは間違いなく「革命」を意図しており、それは具体的に言えば保守政権の打倒、もっと言えば国会・首相官邸と言った統治機構施設の占拠である。左翼は大規模なデモ隊でこれら施設を占拠したと同時に「人民政府」の樹立を宣言するつもりだった。

 仮に戦後日本に在日米軍が駐留せず、左翼の大規模デモにより国会・首相官邸が完全占拠され「人民政府」の樹立が宣言された場合、ソ連がそれを承認していた可能性が高い。もちろん「解放」を確実にするためソ連軍が日本に上陸、占領しに来ただろう。

 戦後の左翼対策とはソ連の日本本土侵攻を阻止するという意味合いもあった。少なくとも保守派はそう考えていたのは間違いない。

 戦後日本では治安維持法への反動もあり「力」による左翼対策は極めて困難だった。吉田内閣下で破壊活動防止法こそ制定したが同法は強烈な反対にあい規制の「核」である団体規制の適用が困難になり使い勝手の悪いものになってしまった。それでも破防法に基づき日本共産党への調査活動が公然化できたのだから同法に一定の評価は与えるべきだが立法意図とはかけ離れたものになったのは間違いない。

 戦後最大のデモである60年安保が起きてから保守政権は少なくとも先制的な左翼対策、例えば結社・集会の自由を規制するといった対策は放棄した。

 よく知られているように60年安保を境に保守政権はいわゆる「政治路線」から「経済路線」に切り替えた。左翼との対決路線の推進は60年安保の再来を招く可能性があることから、その代わりに経済成長を推進することで国民の安保への関心をそらした。何よりも10年後(1970年)には日米安保も更新しなければならない現実があり政治的混乱は絶対に避けなくてはならなかった。この「路線変更」は結果的に大成功であった。

 60年代の高度経済成長により国民所得が10年間で約2.3倍になり労働者の「革命」への希望は冷めた。そしてなにより経済成長により税収が増加したため警察官が60年代を通じて約6万人増員された。相当な増員である。デモに対応する機動隊も拡充され「他人に危害を加えない」という意味での機動隊はこの時期に確立した。

 事実上、GHQによって制定された警察官職務執行法を考えれば今も昔も警察官ができることは基本的に「受け身」であり要するに防御である。

 左翼を「解体」することはできないが左翼の攻撃(大規模デモ)から国会・首相官邸といった中枢施設は守れる。治安維持法を教訓とするならば結社・集会の自由の規制を通じて相手の存在自体を否定するような手法は必ずしも合理的とは言えない。

 強力な規制は強力な反動を招くものである。保守政権による思い切った「路線変更」、要するに経済成長に伴う左翼の「骨抜き」と警察官増員に基づく防御主体の治安政策は基本的に「成功」した。

 恐らく自民党もここまで成功するとは思わなかっただろう。そして今後の左翼対策を考えるうえでもこの「基本形」は維持すべきである。もっとも1970年代の極左暴力集団の横暴や90年代のオウム事件などを考慮すれば防御に偏在し過ぎたとも言える。

 これらを踏まえたうえで日本型リベラルへの対策を検討しなければならない。