保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

戦後日本の左翼対策

 現在、日本型リベラルへの対策が急がれるが、それについて語る前に日本近現代史における左翼対策について概観したい。戦前の「左翼対策」は言うまでもなく「日本共産党対策」が主軸であり、治安維持法に代表される各種治安立法を駆使し文字通り壊滅させた。しかし治安維持法は構成要件が曖昧であり、徹底した拡大解釈がなされたため自由主義者も適用対象となってしまった。

 戦後、GHQの圧力により同法は廃止され「主敵」であった日本共産党関係者が釈放されたこともあってか治安維持法は「天下の悪法」と評さるほどになった。現在もこの評価は変わってはいない。

 戦前の左翼対策はまさに「力」の対策だった。そして戦後、警察が対峙すべき左翼勢力は戦前のそれとは比較にならないほど強力だった。

 戦後の左翼世界における日本共産党の知的権威は突出したものであり「インテリ」に分類されるものはほとんど全部が日本共産党を支持した。例えば読売新聞社長の渡邉恒雄氏が日本共産党員だったことはよく知られている。

 とりわけ終戦直後の知的世界はまさに「共産党にあらずんば人にあらず」の状態であった。1951年の日本共産党武装蜂起の失敗により同党は国会での議席を全て失い知的世界でもその支持は頭打ちになったがやはり戦後の左翼における日本共産党の存在感は圧倒的であった。

 左翼運動の基本は大規模デモであり今も昔もこの基本は変わらない。おそらく永遠に変わらないだろう。しかし昔の左翼の大規模デモは間違いなく「革命」を意図しており、それは具体的に言えば保守政権の打倒、もっと言えば国会・首相官邸と言った統治機構施設の占拠である。左翼は大規模なデモ隊でこれら施設を占拠したと同時に「人民政府」の樹立を宣言するつもりだった。

 仮に戦後日本に在日米軍が駐留せず、左翼の大規模デモにより国会・首相官邸が完全占拠され「人民政府」の樹立が宣言された場合、ソ連がそれを承認していた可能性が高い。もちろん「解放」を確実にするためソ連軍が日本に上陸、占領しに来ただろう。

 戦後の左翼対策とはソ連の日本本土侵攻を阻止するという意味合いもあった。少なくとも保守派はそう考えていたのは間違いない。

 戦後日本では治安維持法への反動もあり「力」による左翼対策は極めて困難だった。吉田内閣下で破壊活動防止法こそ制定したが同法は強烈な反対にあい規制の「核」である団体規制の適用が困難になり使い勝手の悪いものになってしまった。それでも破防法に基づき日本共産党への調査活動が公然化できたのだから同法に一定の評価は与えるべきだが立法意図とはかけ離れたものになったのは間違いない。

 戦後最大のデモである60年安保が起きてから保守政権は少なくとも先制的な左翼対策、例えば結社・集会の自由を規制するといった対策は放棄した。

 よく知られているように60年安保を境に保守政権はいわゆる「政治路線」から「経済路線」に切り替えた。左翼との対決路線の推進は60年安保の再来を招く可能性があることから、その代わりに経済成長を推進することで国民の安保への関心をそらした。何よりも10年後(1970年)には日米安保も更新しなければならない現実があり政治的混乱は絶対に避けなくてはならなかった。この「路線変更」は結果的に大成功であった。

 60年代の高度経済成長により国民所得が10年間で約2.3倍になり労働者の「革命」への希望は冷めた。そしてなにより経済成長により税収が増加したため警察官が60年代を通じて約6万人増員された。相当な増員である。デモに対応する機動隊も拡充され「他人に危害を加えない」という意味での機動隊はこの時期に確立した。

 事実上、GHQによって制定された警察官職務執行法を考えれば今も昔も警察官ができることは基本的に「受け身」であり要するに防御である。

 左翼を「解体」することはできないが左翼の攻撃(大規模デモ)から国会・首相官邸といった中枢施設は守れる。治安維持法を教訓とするならば結社・集会の自由の規制を通じて相手の存在自体を否定するような手法は必ずしも合理的とは言えない。

 強力な規制は強力な反動を招くものである。保守政権による思い切った「路線変更」、要するに経済成長に伴う左翼の「骨抜き」と警察官増員に基づく防御主体の治安政策は基本的に「成功」した。

 恐らく自民党もここまで成功するとは思わなかっただろう。そして今後の左翼対策を考えるうえでもこの「基本形」は維持すべきである。もっとも1970年代の極左暴力集団の横暴や90年代のオウム事件などを考慮すれば防御に偏在し過ぎたとも言える。

 これらを踏まえたうえで日本型リベラルへの対策を検討しなければならない。