保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

立憲民主主義という「ガチの大義」

 立憲民主党の枝野代表は

 

立憲主義は右も左もない。近代社会であるならば当たり前の大前提である。21世紀に立憲主義を掲げなければならないことは本当に情けない、恥ずかしいことだけれども、いま掲げざるを得ない状況にある中で、多くの国民とともに立憲主義を取り戻す闘いの先頭に立っていく決意だ。」

(2017年11月3日 朝日新聞DIGITAL)

立法権内閣総理大臣の権力は何によって与えられるか。選挙と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかない。」

毎日新聞取材班 「枝野幸男の真価」 72頁)

立憲主義とセットになって初めて民主主義は正当化されます」

(前掲同書 72頁)

 

 と述べている。

 

 枝野氏は民主主義はそれだけでは成立せず「立憲主義」の要素が含まれていなければ「真の民主主義」と呼べないという姿勢である。

枝野氏にとって「立憲主義」と「民主主義」は同価値であり「車の両輪」の関係にあるのは明らかだろう。立憲民主党界隈では両者を合わせたものが「立憲民主主義」と呼ばれている。

 そしてこの「立憲民主主義」について更に明瞭に示してくれる意見がある。立憲民主党議員(2018年入党)である中妻じょうた氏は次のように述べる。

  

 さて、近年立ち上げられる新党の名前はやわらかい感じのものが多かったのですが、この度立ち上がったのは「立憲民主党」という、古風でいかつい名前の政党です。

この政党は、いったい何をめざすのか。

「立憲民主主義をめざす」といえばそのとおりなのですが、もっとリアルに感じ取るためには、「立憲民主主義の反対語」を考えるとわかりやすいと思います。

「立憲民主主義の反対語」とは、何だと思いますか。

「保守」などではありませんよ。

それは、「人治独裁主義」です。

明文化されたルールを民主的に決定して統治するのではなく、統治者のやることが絶対とし、ルールよりも統治者の判断を優先させる支配体制です。

保守とかリベラルとか、関係ありません。

「立憲民主主義」は近代国家なら当然の体制であり、「人治独裁主義」は前近代の支配体制です。

ところがいまの日本では、ルールに基づいた民主的な統治体制という、近代国家として当然の体制が揺らいでいます。

 

(中 略)

 

立憲民主主義という「ガチの大義」によって、日本を「近代国家として当たり前の国」として整え、国民一人ひとりの自由と可能性によって日本の発展を促す。

立憲民主党は、そんな政党になっていくと思います。

(2017年10月3日 ハフィトン・ポスト)

 

  中妻氏が警戒しているのは「人治独裁主義」でありその対抗軸として「立憲民主主義」を掲げている。氏は「立憲民主主義」を掲げることで「人治独裁主義」を避けられるという理解である。では中妻氏が述べる「人治独裁主義」とはなんなのか。

 まず独裁者が「人治独裁主義」の採用を公言することはない。独裁を正当化する論理は簡単ではない。独裁を正当化する論理として歴史的には「王権神授説」は有名だがそれも破綻した。いつの時代のいつの人も根拠なく他人に支配されることには反発する。

 現代人が「独裁者」と聞いて想起するのはやはり20世紀に存在したヒトラースターリンといった独裁者ではないだろうか。この二人ほど戦争・虐殺といった負のイメージが強い独裁者はいない。

 20世紀以降の独裁者で目立つのは「独裁者」と「イデオロギー」の関係である。「独裁」と「イデオロギー」は相性が良く、要するに「イデオロギー」は「独裁を正当化する論理」になったのである。より正確に言えば「イデオロギー」が本来の意味を失い政治利用されたと言ったところだろう。

 共産主義社会主義は「平等」の実現の名の下、共産党に絶大な権限を与えた。

「平等社会」とは「富の平等」であり、これを実現するためにソ連を始めとした社会主義諸国では共産党が「冨の管理」を行い共産党が「冨の分配」を行った。

 しかしそれは結局のところ「冨の分配者」たる共産党に絶対的権力を与えた。

 そしてこの共産党の頂点に立つ者が「独裁者」となった。「平等」が独裁を正当化させたのである。

 またナチス・ドイツでは独裁者たるアドルフ・ヒトラーも「劣等人種」を根絶した「民族共同体の確立」という「イデオロギー」を掲げた。ナチスイデオロギーでは「劣等人種」を根絶することがドイツ民衆の利益になると判断されたのである。

 共産圏にしろナチスにしろ独裁を正当化する論理は理屈の上では民衆にとって利益があるものである。もちろんそれは錯覚に過ぎないし独裁者による詐術である。

 民衆を欺く論理こそ「人治独裁主義」を論ずるにあたってもっとも重要である。

 そして民衆を欺くうえで「正義」とか「大義」は極めて有効である。

「正義を実現するためにやむ負えず権限を集中させる」とか「大義のために私に力を貸して欲しい」といった具合である。独裁は常に「正義」や「大義」を根拠として行われる。正義や大義の欠けた独裁は成立しないと言っても良いだろう。

 おそらく日本人の感覚では「正義」より「大義」の方がなじみやすいと思われる。だから日本で独裁を実現したければ「大義」を掲げることが有効だろう。

 そして「立憲主義」が独裁を正当化する「大義」に該当しない保障はどこにあるだろうか。中妻氏の言う「ガチの大義」が同調圧力を生まない保障がどこにあるのだろうか。

 中妻氏は「人治独裁主義」の説明として「明文化されたルールを民主的に決定して統治するのではなく、統治者のやることが絶対とし、ルールよりも統治者の判断を優先させる支配体制です。」と述べているが「立憲主義」は日本国憲法に明記されていない言葉である。まさに「明文化されたルール」に当たらないものである。

 そして「明文化されたルール」ではないから「立憲主義」を論ずるにあたってはこの言葉の「解釈者」の見解が極めて重要となる。

 つまり中妻氏が述べる「立憲民主主義」という「ガチの大義」が実現された社会では「立憲主義の解釈者」の発言が絶大な影響力を持つ。そしてこの「立憲主義の解釈者」は憲法学者が担うだろう。

何かおかしくないだろうか。

 特定の人物の発言によって左右される社会はまさに「人治独裁主義」そのものではないか。それとも憲法学者は「統治者」ではないとでも言うだろうか。

 ある人物を「統治者」と判断するか否かに関して確かに「役職」は重要な基準になるが一番重要な基準は「影響力」である。内閣総理大臣であっても「影響力」のない人物は独裁者とは言えない。

 論を整理するならば独裁は常に「大義」の名の下で行われる。

 だから「人治独裁主義」に反対する政治家が無邪気に「ガチの大義」を強調する姿勢には驚かされる。

 立憲民主党は「立憲主義を回復させる」ことを「大義」に掲げ活動しているが本当にそれは国民を幸福にさせるのだろうか。「立憲主義」の名の下、個人の自由を抑圧しない保障あるのか。

 今後とも立憲民主党の動向には注視が必要である。