保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「立憲主義を回復させます」とは何なのか

立憲主義を回復させます」

 これが昨年結成された「立憲民主党」の最大の公約である。
 立憲民主党は党名からわかるように「立憲主義」を何よりも高く評価している政党であり党綱領の制定議論の際には「立憲主義」を「最高の価値」として明記する案が出たほどである。
 立憲民主党の理解では2015年9月17日の集団的自衛権を限定容認したいわゆる「平和安全保障法制」の制定をもってして日本では「立憲主義が破壊された」というものである。
 同党の中で「立憲主義が破壊された」ことは極めて異常なことであり「立憲主義」を破壊した安倍政権は到底容認できない存在である。立憲民主党の理解では安倍政権は「民主主義の敵」と言って良い。
 そしてこの理解から立憲民主党は最近、ネット上で「まっとうな政治」について意見募集をした。
 意見を募集したとは言え立憲民主党では「立憲主義の回復」が「まっとうな政治」に含まれるのは間違いない。そしてこの「まっとうな」という言葉は「正義」と置き換えても良いだろう。
 立憲民主党にとって「立憲主義」はまさに「正義」であり「立憲主義」を否定することは「不正義」に他ならない。そこに疑い持っている様子は全くない。
 政治家・政党が「正義」にこだわることに問題があるとは言えないし大胆なことを言えば政治を志す人間のほとんど全部は「正義」を意識し活動しているのではないか。
 一方で政治家ならば「正義」の持つ「排他性」を留意しなくてはならない。
「正義」は神聖で抗し難い「力」を持つ。他人をが主張する「正義」に反論することは難しい。反論されるような「正義」はそもそも「正義」ではない。
 人間は「正義」に反する「不正義」に対して概して不寛容である。「不正義」は否定の対象でありもっと言えば「敵」である。
 そして「敵」は打倒・殲滅の対象になりやすい。「敵」が人間ならば生命すら否定されることもある。
 歴史を概観するならば宗教戦争などでは「不正義」たる「異教徒」は人間ではなく、それは「敵」に他ならず打倒・殲滅の対象でありまさに血で血で洗う戦争を招いた
 「不正義」が人間に「敵」を意識させ驚くような流血の事態を招くならば我々が真っ先に意識すべきことは「正義」ではなく「不正義」である。
 まずもって「不正義」を意識し、その後に「正義」を意識すれば良い。
 「不正義」とは「正義」と同様、人によって様々な評価があるが現在において少なくとも暴力行為、違法行為、迷惑行為がこれに当たることに異論はないと思われる。
 大雑把に言えば「不正義」とは「他人の人権を侵害する行為」と言えるだろう。
 この中でも特に意識しなくてはならないものが「暴力」である。とりわけ政治を語るうえで「暴力」に触れないわけにはいかない。
 「民主主義とは何か」と論ずればそれだけで膨大な知識と時間が消費されるのは明らかだが、それでもあえて論ずるならば「民主主義」という政体は「暴力による決着」を回避するために発達したものである。
 だから「暴力による決着」を試みる行為は民主主義に反する行為である。
 歴史的に「暴力による決着」が好まれた理由は政治的コストが安いという点はもちろん暴力を行使する側に心理的抵抗と遠慮がなかったことも挙げられる。
 ここで重要なのは「暴力による決着」を目指す勢力は暴力の行使を正当化する理論を持っていたことである。この正当化理論が暴力行使への心理的抵抗と遠慮を奪った。
 正当化論理は「宗教」であったり「イデオロギー」であったり時代によって様々であるがそれらは「正義」と言い換えて良い。
 要するに「正義」と「暴力」は実に相性が良い。「正義」は他人を攻撃、殺傷することすらも肯定する。「正義」は人を盲信させる「力」があり、もっと言えば「正義は法を超越する」性格を持つ。「正義」は実に排他的なのだ。
 これは現代においても変わらない。だから政治家は「正義」の排他性に留意が必要である。そして筆者としては現在「正義」と化した「立憲主義」の排他性に関心を寄せざるを得ない。
 正確に言えば「立憲主義」の意味自体ではなく「立憲主義」という言葉の用法が持つ「排他性」である。
 ここまで「正義」について論じたが日本的には「正義」より「大義」の方がなじみやすいかもしれない。
 
 話を立憲民主党に戻すが、同党は「立憲主義を回復させます」の文脈で「まっとうな政治」を主張しているが同党がまず意識しなくてはならないのは「まっとうな政治」ではなく「まっとうではない政治」である。
 現在、森友学園問題で明江夫人への「魔女狩り」とも呼べる個人攻撃がなされている。
 立憲民主党はこれを鎮めるどころか煽っている。立憲民主党から言えば明江夫人は「権力の一員」であるし、明江夫人への個人攻撃を通じて安倍首相個人への精神的打撃を狙っているのかもしれない。常識的に考えれば妻が攻撃されれば夫が受ける精神的打撃は相当に大きい。
 確かに明江夫人の行動は軽率なものが多いし法的権限は何もないのだからその法的性格は「私人」であるが筆者を含む一般人はこれを素直に受け止めることはできない。
 一方で野党各党が主張するように森友学園関係の土地取引に関しては何か関与した証拠もなく、そうした女性を証人喚問しようとする立憲民主党の姿勢には驚かされる。
 そしてこうした立憲民主党の姿勢は「立憲主義を回復させます」の文脈で行われているのは間違いない。 

 要するに「立憲主義」の名の下に「魔女狩り」を行っているのが立憲民主党である。 

立憲主義」の排他性が前面に出ている。
 小選挙区制を採用している以上、立憲民主党も政権与党になる可能性はある。
その時は「立憲主義が回復された」世界になるわけだが、それはどんな世界なのだろうか。