保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

「こんな人たち」列伝~白井聡の場合~その3

 白井聡が示した「戦後日本の核心」と評される「永続敗戦論」であるが今回はこれについて更に進んで検証したい。

 白井は戦後日本の特徴を「対米従属」と定義し、その根底には「欧米人に対するコンプレックス(劣等感)とアジア諸民族に対するレイシズム」があると評価する。

 かつて「鬼畜米英」とまで罵った相手に「従属」する姿が白井から言わせればまさに「奴隷」であり論外に他ならない。そしてこの構造を作り上げたのが「戦後保守」であり、それは「戦前の指導者層」の継続だと評価する。「戦前の指導者層」が継続した事実は裏返して言えば「戦争責任」の追及の不徹底であり、これこそが中国、韓国との歴史認識問題を紛議させており、それは「敗戦の否認」に他ならないと言う。

 筆者が気になるのは白井が指摘する「戦後保守」の母体とも言える「戦前の指導者層」についてである。白井は実にナチュラルに「戦前の指導者層」と表現するが当然、「戦前の指導者層とは何か」という疑問が沸く。

 白井は「戦争責任」の追及の不徹底を問題にしているから、これを素直に解釈すれば白井が言う「戦前の指導者層」とは「対米開戦」を決定した「指導者層」であり、それは東条英機内閣ということになる。

 大日本帝国は東條内閣期においてアメリカからいわゆる「ハル・ノート」を突きつけられ、それを受けて対米開戦を決定した。結果は誰もが知るとおり壊滅的敗北を喫し310万人を超す死亡者を出しアメリカに占領され憲法まで変えられた。

 そして「対米開戦」を決定した東條内閣の閣僚は連合国に拘束され東條を始めとする有力者は「極東国際軍事裁判」、いわゆる「東京裁判」に基づき死刑を含む厳罰が処された。これは連合国による「政治裁判」に他ならない。

 そしてこの「東京裁判」の被告は占領終了後、衆議院議院決議で「赦免」されたことはよく知られているし、一方で世論は「東京裁判」を冷静に受け止めていたこともよく知られている。

 「対米開戦」に限れば「戦争責任」はそれは連合国の手によるものだが追及されたと言えるし、もう少し視野を広げて見れば近衛文麿のように日中戦争の拡大を煽った政治家も自殺し、これは常識的に考えれば連合国・世論が近衛を「追い込んだ」と考えるべきだろう。 

 もっとも、満州事変を引き起こした石原莞爾の責任が追及されていないことは気になるが、石原も戦後、間もなく死亡した。

 そして「戦争責任」で最も話題に上がるのは昭和天皇である。連合国の視点からすれば昭和天皇は「対米開戦」を「裁可」した存在であり、「トップダウン」の意思決定が通常である欧米の価値観で言えば確かに昭和天皇は「戦争責任」はあったのかもしれない。

 しかし日本は「ボトムアップ」を基本とする意思決定システムを採用している。

 だから昭和天皇が「対米開戦」を「裁可」したとは言え単純に「戦争責任」があるとは言い切れないし、何よりも昭和天皇の「戦争責任」が追及され、例えば「厳刑」に処された場合、その反響は測り知れなく戦後日本は著しい混乱を迎えていたに違いない。

 だから昭和天皇の「戦争責任」を追及しないことは一種の「政治判断」であるし、そもそも「戦争責任」の追及もそれが連合国の手によるものならば全て「政治判断」である。   

 もっと言えば各国を超越した「世界政府」というものが存在しない限り「戦争責任」は常に「政治判断」であり、客観性はないと言っても良いだろう。

 実際、「戦争責任」の追及の日本人自らの手で行った場合は「死刑」が選択されたか疑わしい。控えめに言って白井は昭和天皇の「戦争責任」は問題にしていないようである。

 この「戦争責任」で白井がこだわっている人物は岸信介である。岸は東條内閣期に商工大臣に就任しており、「対米開戦」の詔書にも署名した。

 白井は岸の存在を持ってして、もっと言えば東京裁判への不起訴、戦後、首相に就任したことを挙げて「戦前の指導者層」が継続したと主張する。

 確かに岸の東京裁判への不起訴については諸説あるし、戦後、岸はCIAから巨額の資金援助を受け、それを原資に自由民主党を結党したと言われているが実情はよくわかっていない。

 白井は「軍人指導者は政治から排除され、最も高位を占めていた指導者たちは罰を受けました。政官財学メディアの各領域で、あの無謀な戦争を突き進むことに加担した人たちが、一時は公職追放処分などを受けたものの、紆余曲折を経ながら日の当たる場所へと続々と復帰していったのです」と評する。

 そして「あの無謀な戦争を突き進むことに加担した人」の具体例として岸信介を挙げているが、実は具体例はこの岸だけである。

 しかしどうだろうか。白井は「戦前指導者層がそのまま戦後も支配層に留まり続けました」と大層な表現を使うわりには白井が挙げた具体的な人物は岸信介ただ一人だけである。人数としては驚くほど少ない。また岸信介の評価も一面的である。

 確かに岸は東條内閣の閣僚を務めたから「戦前の指導者層の一員」と言えるが、特に「戦前の指導者層」とやらを代表していたわけではない。

 岸信介という人物を触れるにあたって幾つかエピソードを紹介すると岸は東大を上位クラスで卒業し農商務省に入省した。当時の東大エリートでは上位卒業者は大蔵省か内務省に入省するのが「常識」で岸の決断は知的エリートの中ではちょっとした話題になった。 

 そして岸の官僚としての名声を挙げたのが官僚としての業務ではなく浜口雄幸内閣より提案された役人の減給案への反対運動に参加してからである。役人の地位は現在と比べて大きく異なると思うが「反対運動」などなかなかできるものではない。このエピソードで窺えるのは岸の「政治家」としての資質だろう。

 論を戻そう。官僚としての岸の名声を揺るぎないものにしたのは満州国への赴任である。岸は満州国総務次長の立場で同国の開発に辣腕を奮った。満州国は岸が事実上の支配者だった言っても過言ではない。

 そして名声を浴びた岸は東條内閣に入閣した。当初は商工大臣であり、途中、商工省が改組され軍需省次官に降格されたが無任所の国務大臣を兼任したことから岸が事実上の軍需大臣だったと言っても良い。

 このように岸は「戦前の指導者層の一員」として立身出世の階段を登っていたが、その途中、東條内閣は瓦解した。東条内閣の瓦解の減員はサイパン島陥落が挙げられるが、一方で東条からの閣僚辞任要求を岸信介が拒否したことも併せて挙げられる。

 大日本帝国では首相に国務大臣の罷免権がなかったことを考えれば岸が東條内閣を瓦解させたと言っても良い。白井の中で東條内閣瓦解における岸はどのように評価されているのだろうか。

 岸は「戦前の指導者層の一員」であったがその「戦前の指導者層」を瓦解させた人間でもあった。多少、歴史に関心がある者ならば白井が述べる「戦前の指導者層」という表現に違和感を覚えるのではないだろうか。大日本帝国に「戦前の指導者層」と呼べるほど強固なものはあっただろうか。大日本帝国ではよく首相が交代した。これは大日本帝国では前記したとおり首相は国務大臣への罷免権がなく「同輩中の首席」に過ぎなかったからである。また「指導者」という表現を使うとやはり「個人」を想起してしまい、それは大日本帝国の意思決定システムの考究に繋がらない。大日本帝国の意思決定を論ずるには「個人」ではなく「組織」が適当である。ではその「組織」はどうであったか。

 確かに陸海軍は強大であったが一方で内務省、大蔵省の強大さもよく指摘される。大蔵省は予算編成権を背景に陸海軍からも一目置かれた。

 もちろん「対米開戦」に至るまでその存在感を示したのが陸海軍であるが、その陸海軍は互いに仲が悪く、陸海軍内部でも陸軍は陸軍省参謀本部、海軍は海軍省-軍令部といった具合で対立していた。

 白井が述べる「戦前の指導者層」の意思は常に分裂しまとまることもなく決定を先送りし続けていたらそのまま「対米開戦」に突入してしまったのである。

 常時分裂していた「戦前の指導者層」が一致結束したのはアメリカから「ハル・ノート」を突きつけてからという次元でありだからこそ敗戦した。

 そしてGHQにより「戦前の指導者層」を抱えていた陸海軍はもちろん内務省も解体され「有力官庁」で生き残ったのは大蔵省だけだったと言われる。

 要するに敗戦の結果「戦前の指導者層」は解体したのである。

 だから岸信介の存在を持ってして「戦前の指導者層の継続」を主張するのはかなり無理がある。例えば白井の中で吉田茂はどのような位置づけになっているのであろうか。 

 吉田は外交官であったが「対米開戦」に反対し戦時中は逮捕、勾留の憂き目にあった。このことから吉田は「戦前の指導者層」に含まれず、それどころか「戦前の指導者層」に抗した人物である。戦後、吉田は首相となり「永続敗戦論」の基礎をなす日米安全保障条約を締結した政治家である。

 「戦前の指導者層」に含まれない吉田茂日米安保を確立した事実は「永続敗戦論」の根本を否定するものではないか。

 また吉田と同じく戦後、首相となった石橋湛山はどうだろうか。石橋は在野のジャーナリスト出身であり、もちろん「戦前の指導者層」に含まれない。

 論を整理するなら「戦前の指導者層」は敗戦の結果、解体し同指導者層に抗した人物が戦後、台頭した。岸は言うなれば「戦前の指導者層」の残存勢力であるが、そうだとしても戦前の影響力のそのまま継続し戦後、政治家として大成したわけではない。

 戦後の岸の政治的台頭は純粋に岸個人の卓越性によるものだろう。だからこそ岸はアメリカから評価され、また対立者から恐れられたのである。もっと言えば一般大衆も岸を恐れた。岸への恐怖が1960年の安保闘争を引き起こしたである。

 要するに白井が問題視している「戦前の指導者層」は継続して戦後日本に存在したわけではないし、このことは白井が示した「永続敗戦論」が誤りだったことを意味する。

 戦後の日本人は良い意味では「欧米人に対するコンプレックス(劣等感)」を持ち、それが経済成長を実現し、その「成長の果実」を経済援助として中国、韓国を始めとしたアジア諸国に投資し、その結果、これらの諸国の経済成長を実現した。仮に戦後日本が「アジア諸民族に対するレイシズム」とやらがあれば経済援助などしなかったはずである。

 結論から言えば白井聡が示した「永続敗戦論」は幻想である。

 そんなものは存在しない。存在するのは白井の頭の中だけである。