保守の視点

「保守の視点」から政治・歴史を語る

9条のために犠牲になるか

 戦後日本では護憲派と呼ばれる勢力が一貫して存在した。

 彼らの安全保障に関する理解は幅があるが根幹は「憲法9条による平和」であり、戦後日本の平和は憲法9条の存在があってこそ実現したというものである。

 護憲派憲法9条を梃に自衛隊日米安保を批判して来た。ただし護憲派による自衛隊・日米同盟批判は戦後変化しており政党レベルでは現在、社会民主党日本共産党を除けば全ての政党が自衛隊・日米同盟の存在を容認している。

 しかし昨今の安全保障環境の変化を考慮すれば両者の存在を容認するだけでは不十分であり、その規模・行動範囲の見直しが必要である。

 もっとも「見直し」と言っても安全保障体制を「国際標準」にするだけであり、具体的には防衛力の増加、秘密保護法制の制定、そして集団的自衛権の容認である。

 安倍内閣下で行われたこれらの施策は「保守」「リベラル」のイデオロギーの文脈で捉えるのは適当でない。日本の安全保障論議は「保守」「リベラル」の対立軸で議論されることがほとんどだが「保守」だから集団的自衛権に賛成し「リベラル」だから集団的自衛権に反対するものなのだろうか。

 例えばNATOはヨーロッパ諸国による集団的自衛権の行使を前提にした組織であるが、ならばNATO加盟国は「保守」の国なのだろうか。もちろんそんなことはない。

 だから安倍内閣による秘密保護法制の制定、集団的自衛権の限定容認は「保守」「リベラル」の対立軸で解釈するのではなく純粋に「普通の国」への移行と解釈すべきである。

 そしてこの「普通の国」への移行に反対しているのが護憲派である。

 筆者は憲法9条を守り続けることで日本の平和が実現するならば誰よりも進んで憲法9条改正に反対し憲法9条を守り続けるが、戦後日本の平和はとても憲法9条によって実現されたとは思えない。

 単純に平和な日本に憲法9条があっただけである。

 要するに「憲法9条があるから平和だった」のではなく「平和だったから憲法9条があった」だけである。あるいは憲法9条の規定の性格を考えれば「憲法9条があるにもかかわらず平和だった」という表現が最も適切だろう。

 にもかかわらず憲法9条を守ろうとする護憲派の思考はまさに「平和より9条を守る」であり、まさに倒錯であり目的と手段が逆転した思考である。

 目的と手段が逆転することは珍しい現象とは思わないが、いざ見てみるとそれは「グロテスク」以外の何物でもない。安全保障は国民の生命がかかっている分野である。

 憲法9条を墨守する護憲派は戦後一貫して安全保障論議の混乱要因であった。

「民主主義」なる政治体制をどのように評価するか様々であるが平和的な「議論」が基本であることは論をまたない。だから民主主義国家において「議論の混乱」は決して軽視すべき問題ではない。

 護憲派という安全保障論議の混乱要因を抱えつつも日米同盟は維持されたため戦後日本の平和は保たれた。日米同盟は「片務的同盟」という異例の同盟関係にもかかわらず維持されてきたのは、それを容認する超大国たるアメリカの「破格の対応」があったからに他ならない。

 だから護憲派が如何に安全保障論議を混乱させようとも日本の平和そのものが損なうことはなかった。しかし今はそのような余裕はない。アメリカの国力も昔ほど圧倒的ではなく「破格の対応」が困難になっている。

 だから日本の平和のためにも安全保障論議の混乱要因である護憲派に引導を渡す必要がある。護憲派護憲派たらしめるのは憲法9条2項の存在であり、護憲派に引導を渡すということは即ち憲法改正、より具体的に言えば9条2項の削除が必要である。

 憲法9条2項が消滅すれば護憲派は9条を守りたくても守れない。

憲法9条2項が削除されれば例えば著名な護憲団体である「9条の会」などとても存在できないだろう。

 憲法9条2項の削除は安全保障論議の混乱要因である護憲派の思想的基盤を解体するものであり、まさに護憲派に引導を渡すことである。

 改憲論にはこの視点が必要であり憲法9条2項がある限り「憲法9条による平和」を唱える護憲派は日本に存在し続けるだろう。

 そして護憲派は日本有事において「憲法9条を守る」ないし「平和を守る」という名の下で日本の平和を守る自衛隊在日米軍の活動を妨害する恐れがある。  

 最近でも北朝鮮から発射された弾道ミサイルに対応するために発動されたJアラートを批判する護憲派も出てきた。彼らの活動は「護憲運動」に該当するのかもしれないがとても「平和運動」とは言えないし、言い換えれば護憲運動が平和に寄与するとは限らないのである。

 予想される護憲派による自衛隊在日米軍の活動妨害は「利敵行為」に他ならず日本と日本人の平和を害することであり、とても容認できない。

 日本を侵略しようとしている国からすれば、自衛隊在日米軍は日本侵略の障害以外の何物でもなく、それらの活動を妨害してくれる護憲派は実に有り難く頼もしい存在である。要するに対日侵略国と護憲派は実に相性が良いのである。

 むしろ対日侵略国は別の観点、つまり自らの対日侵略を円滑にするために護憲派に着目するだろう。憲法9条を守ろうとする護憲派自衛隊在日米軍の存在自体に批判・否定的であり、対日侵略国が護憲派に秘密裏に援助(資金、活動家の派遣等)を与えて彼らを通じて自衛隊在日米軍の活動を妨げることが対日侵略に役に立つと考える可能性もあるし実際、それは合理的である。

 ここまでいかなくても自らの侵略の障害たる自衛隊在日米軍に批判・否定的な勢力が存在すること自体、対日侵略国を勇気づけ対日侵略の心理的ハードルを下げることは間違いない。

 護憲派は対日侵略国と相性が良く、まさに利用されやすい存在であり、護憲派当人達の意識は別として対日侵略を招き入れる、戦争を誘発する、要するに護憲派は「侵略の呼び水」「侵略の案内人」「侵略の手配人」となりやすいのである。

 護憲派による利敵行為を防止するという観点からも憲法9条2項削除によって護憲派に引導を渡す必要がある。このことから9条改正は「自衛権の明文化」といった次元に留まらずまさに安全保障問題の域に達していると言える。

 一方で憲法改正への態度は政党・世論の間でも様々でありまさに情勢次第である。

 ここで重要なのは何よりも平和を守るためにはより多目的な視点が必要であるということであり、優秀な兵器を揃えれば良いだけではない。

 護憲派の存在はもはや安全保障問題であり、このことを踏まえて大局的に安全保障政策を論ずる必要がある。

 昨今の改憲論には前文や天皇条項の改正を含むものなど様々な案が提案されているが「侵略の呼び水」たる護憲派の利敵行動を視野にいれれば最優先に検討されなくてはならないのは憲法9条2項についてである。

 一方で護憲派の政治的社会的存在が大きいのも事実であり、そのことを踏まえて「保守」は今後の改憲運動を進めなくてならない。

 

確実に言えることは我々日本人は今

 

9条のために犠牲になるか、9条を改正し生き残るか

 

の瀬戸際に立たされている。